曠野(堀辰雄)のあらすじ・登場人物
荒れた屋形で待ち続ける女
- 恋愛
- 歴史
- 文字数
- 10,319字
- 読了目安
- 約21分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 京都府
- 滋賀県
この作品について
堀辰雄が1941年(昭和16年)12月号の「改造」に発表した短編。『今昔物語集』に伝わる、零落した中務大輔の娘が近江の郡司の婢となる説話を下敷きにしている。西の京の六条あたりの古い屋形で、両親に慈しまれて育った娘が、婿に迎えた兵衛佐とむつまじく暮らしはじめる。しかし世間から忘れられた家は傾き、両親を相次いで失った女は、夫の宮仕えの支度さえ思うにまかせなくなっていく。冒頭に拾遺集の「忘れぬる君はなかなかつらからで」の歌を掲げ、王朝の言葉づかいを取り入れた静かな文章で、待つことしかできない女の心の移ろいと、荒れてゆく屋形の情景を重ねて描く。王朝ものの『かげろうの日記』などと並ぶ、堀の晩年の古典に取材した作品の一つ。
あらすじ
西の京の六条に住む中務大輔は、ひとり娘に兵衛佐を婿に迎え、二三年は誰にも不足のない月日が流れた。だが暮らし向きは傾き、両親が相次いで亡くなると、女は夫の出仕の支度も調えられなくなる。女は、あなたのためにどうぞ余所へ移ってほしいと別れを切り出し、男は置き去りになどできないと拒むが、やがて黙って姿を見せなくなった。召使いは去り、寝殿は崩れ、女は傾いた西の対で、それでも男を待ち続ける。一方の男は新たに伊予の守の娘の家に通いながらも女を忘れられず、ある春の暮れ、荒れ果てた屋形を訪ねて女の名を呼ぶ。だが痩せ衰えた姿を見られるのを恐れた女は、息を詰めて答えられず、男はもう女はいないものと諦めて立ち去った。半年後、近江から上京した郡司の息子が、屋形に棲みついた老尼を介して女に言い寄る。もうあの方には逢えないのだと悟った女は、その男に身をまかせ、近江へ下る。ところが息子には国元に妻があり、女はおもてむき婢として仕えることになった。誰にも知られず婢として一生を終えたいと思うまでになった数年後、新しい近江の守が国内を巡り、郡司の館で宴を開く。守は粗末な身なりの小柄な婢に心を動かされ、その夜、女を召し出す。顔を袖で覆ったまま口をきかない女を抱くうちに、守は若い兵衛佐だったころに通った女の面影を思い出し、「矢張りおまえだったのか」と抱きすくめる。女は必死に逃れようとして、やがて男の腕のなかで息絶えていった。
登場人物
- 女 中務大輔の一人娘。両親を失って零落し、去った夫を待ち続ける
- 男(兵衛佐) 女の夫。暮らしの傾いた女のもとを去るが、女を忘れられない。のちに近江の守となる
- 中務大輔 女の父。昔気質で世間から忘れられた人
- 尼 屋形に棲みついた年老いた尼。女を気の毒に思い、世話を焼く
- 郡司の息子 近江から上京した若者。尼の甥で、女を近江へ連れ帰る
冒頭部(原文より)
そのころ西の京の六条のほとりに中務大輔なにがしという人が住まっていた。昔気質の人で、世の中からは忘れられてしまったように、親譲りの、松の木のおおい、大きな屋形の、住み古した西の対に、老妻と一しょに、一人の娘を鍾愛しみながら、もの静かな朝夕を過ごしていた。
「曠野」堀辰雄(青空文庫)
末尾部(原文より)
「しっかりしていてくれ。」男は女の背を撫でながら、漸っといま自分に返されたこの女、――この女ほど自分に近しい、これほど貴重なものはいないのだということがはっきりと身にしみて分かった。――そうしてこの不為合せな女、前の夫を行きずりの男だと思い込んで行きずりの男に身をまかせると同じような詮らめで身をまかせていたこの惨めな女、この女こそこの世で自分のめぐりあうことの出来た唯一の為合せであることをはじめて悟ったのだった。 しかし女は苦しそうに男に抱かれたまま、一度だけ目を大きく見ひらいて男の顔をいぶかしそうに見つめたぎり、だんだん死顔に変りだしていた。……
「曠野」堀辰雄(青空文庫)
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