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帝銀事件を論ず(坂口安吾)のあらすじ・登場人物

犯人に戦争の匂いを嗅ぐ

  • 社会

坂口安吾 1948年(昭和23年)3月 「中央公論」

文字数
7,227字
読了目安
約14分
表記
新字新仮名

この作品について

1948年(昭和23年)、「中央公論」3月号に発表された坂口安吾の時事評論。世間を震撼させた毒殺強盗事件を、凶悪な悪鬼の仕業とは見ず、犯人の姿に「戦争の匂い」を感じ取るところから筆を起こす。焼け跡で見た屍体の始末、人をぶら下げて走る電車、欠配つづきの配給といった自分の見聞をつらねて、戦争が終わったと言われても現実はなお荒廃のただ中にあると述べ、罪を人間でなく物資の窮乏と政治の側に問う。末尾には文学者と政治家の立場のちがいも語られる。

あらすじ

(内容の要旨)帝銀事件の犯人から安吾が強く感じるのは悪魔ではなく戦争の匂いだという。空襲で焼け野原になった町で、爆死した七人の屍体を無造作に積んで焼く若者たちや、麦畑に逃げ込んだ自分を咎める職工を見た経験から、人智が錯倒した戦争の悪夢を語る。終戦や民主主義は架空の観念にすぎず、人々が身をもって知るのは焼け野原、雑居生活、殺人電車、二合五勺の配給とその欠配という四囲の現実で、それは今も戦争そのものだと説く。人が物を盗むのは物に窮するからであり、罪は人間でなく窮乏と荒廃にある。それでも暴動も起こさず耐える同胞を信頼すべきだ、と安吾は言う。政治家は自らは暖衣飽食しながら国民に清貧を説いてはならず、犯罪のたびに政治の貧困を自覚せよと迫る。人間とは衣食足れば礼節を知り、窮すれば罪の子となる存在だという認識から出発し、犯人を憎む前にまず人間を自覚しようと結ぶ。

冒頭部(原文より)

 帝銀事件はとくに智能犯というほどのものではないようだ。  この犯人から特別つよく感じさせられるのはむしろ戦争の匂いである。私は、外地の戦場は知らないのだが、私の住む町が一望の焼け野となり、その二カ月ほど後に再び空襲を受けて、あるアパートの防空壕へ五〇キロの焼夷弾が落ちた。中に七人の屈強な壮年工がはいっていて爆死したが、爆死といっても、爆発力はないのだし、ただ衝撃で死んだだけで、焼けてもおらず、生きたままの服装で、ただ青ざめて目をとじている屍体であった。  翌日はうららかな初夏の陽がふりかがやいていたが、私が用があって、このアパートを通りかかると、アパートの隣はすでに焼け野なのだが、今しも二人の若者が七人の屍体をつみ重ねて、火をつけるところで、ちょうど七人目を運んできて、ドッコイショと放りだしたところであったが、放りだして、まだ真新しい死人の戦闘帽にふと気がつくと、それをチョイとつまみとって、火のかからぬ方へ投げやった。

「帝銀事件を論ず」坂口安吾(青空文庫)

末尾部(原文より)

 まず人間を自覚しよう。人間とはなにものであるか、謙虚に、誠実に、自分の心をふりかえる生活を、万人がもつ必要がある。帝銀事件などは、どうでもいい。三面記事、ビッグ・ニュース、それを面白がるだけで、たくさん。道義タイハイ、兇悪なる世相、などと、それは余計の邪魔物、あって益なく、百害あるだけのコケのお説法というものだ。  どこかの都立の産院だか、病院だかで、捨子公認所をつくったそうだが、こういう工夫をいろいろとやる方に頭を使うべきである。捨子なさる方は当院の玄関へソッとおいて逃げてください、会いたくなったら、いつでもいらっしゃい、丈夫に育てておきます、などというのは、まことに気がきいていてオツな話だ。日本の風教の施策は、まずこんなふうな形のところから出発すべきだろうと私は思う。一人の悪産院を罰するよりも、捨子公認所をつくる、この方が健全な政治なのである。

「帝銀事件を論ず」坂口安吾(青空文庫)

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