斗南先生(中島敦)のあらすじ・登場人物
狷介な伯父を見つめる甥
- 家族
- 心理
- 文字数
- 22,238字
- 読了目安
- 約44分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
中島敦が、漢学者だった伯父・中島端(号は斗南)の晩年と死を、甥の「三造」の目から描いた作品。1933(昭和8)年に書き上げられ、のちに十年後の感慨を記した結びを加えて、1942(昭和17)年7月刊の第一創作集『光と風と夢』に収められた。物語は、伯父の死後に刊行された詩文集を前に、三造がそれを大学と高等学校の図書館へ納めに行くのをためらう場面から始まる。妻をめとらず放浪を重ね、世を罵り続けた伯父と、その気質を受け継いでいると言われることに苛立つ青年。冒頭の漢詩や羅振玉の漢文の序が示すように、作中には伯父の詩文が数多く引かれ、漢学の家に育った作者の出自がうかがえる。
あらすじ
三造は、二年前に七十二歳で亡くなった伯父の遺稿の詩文集を前に、それを大学と高等学校の図書館に納めに行くのをためらっていた。伯父は幼い頃から秀才と言われた漢学者だが、まとまった仕事もせず、妻もめとらず、世を罵り人を罵りながら放浪を重ねて一生を終えた。親戚から伯父に似ていると言われてきた三造は、その時代離れした峻厳さや奇行を、自分にも流れる気質として嫌っていた。昭和五年の春、病を押して相州大山に籠もった伯父から、大阪の姪の家まで送ってくれと頼まれた三造は、伯父を八尾まで送り届ける。勘違いや癇癪に振り回され、立て替えた汽車賃もタクシー代も払わされるが、松田駅のプラットフォームで眠るように座る伯父の姿に、三造は死の近いことを感じる。やがて東京へ戻った伯父は胃癌で助からないと告げられ、洗足の弟の家で最期の日々を送る。食べ物を受けつけない苦痛のなかで看護婦を罵る伯父の姿は痛ましく、ついに薬で眠り続けさせる手当てが選ばれる。薬を飲む前、伯父は三造の手を握って「お前にも色々厄介を掛けた」と言い、三造はその眼の静かな美しさに打たれる。その夜、三造は伯父の性質を冷静に検討してやろうと手帳に書きつけるが、それはいつか伯父と自分との精神の類似を確かめる作業になっていく。伯父は翌日の晩に息を引き取った。棺に納められた小さな身体を見たとき、三造は思いがけず涙を止められなくなる。結局三造は、罪ほろぼしの気持ちで遺稿を郵便小包で図書館に送ることにした。それから十年後、三造は当時の自分の羞恥を滑稽と感じ、自分が伯父を愛していないと思い込んでいたことに驚く。支那事変、さらに大東亜戦争の開戦を迎えて、伯父の著書『支那分割の運命』を読み、熊野灘に沈めた遺骨と、遺筆の和歌を思い起こす。
登場人物
- 三造 伯父に似ていると言われ、その気質を嫌う青年
- 伯父 斗南狂夫と号した漢学者。狷介で人を罵り、妻をめとらず放浪を重ねた
- お髯の伯父 斗南の弟。古代文字を研究する隠者のような老人
- 洗足の伯父 斗南の弟。最期の兄を自宅に引き取る
- 八尾の従姉 大阪の八尾に住む三造の従姉。病んだ伯父を迎える
冒頭部(原文より)
一 雲海蒼茫 佐渡ノ洲 郎ヲ思ウテ 一日三秋ノ愁 四十九里 風波悪シ 渡ラント欲スレド 妾ガ身自由ナラズ ははあ、来いとゆたとて行かりょか佐渡へだな、と思った。題を見ると、戯翻竹枝とある。
「斗南先生」中島敦(青空文庫)
末尾部(原文より)
大東亜戦争が始まり、ハワイ海戦や馬来沖海戦の報を聞いた時も、三造のまず思ったのは、この伯父のことであった。十余年前、鬼雄となって我に寇なすものを禦ぐべく熊野灘の底深く沈んだこの伯父の遺骨のことであった。鯱か何かに成って敵の軍艦を喰ってやるぞ、といった意味の和歌が、確か、遺筆として与えられたはずだったことを彼は思出し、家中捜し廻って、ようやくそれを見付け出した。既に湿気のためにぐにゃぐにゃになった薄樺色地の二枚の色紙には、瀕死の病者のものとは思われない雄渾な筆つきで、次のような和歌がしたためられていた。 あが屍野にな埋みそ黒潮の逆まく海の底になげうて さかまたはををしきものか熊野浦寄りくるいさな討ちてしやまむ
「斗南先生」中島敦(青空文庫)
原文を読む
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