ヴィヨンの妻(太宰治)のあらすじ・登場人物
詩人の夫を語る妻の声
- 詳細なあらすじ
- 人物相関図
- 家族
- 心理
- 文字数
- 20,413字
- 読了目安
- 約41分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
1947年(昭和22年)3月の『展望』に発表された太宰治の短編小説。年の暮れの深夜、詩人の大谷が息を切らして帰宅し、そのあとを小料理屋の夫婦が追ってくる。妻の「私」は幼い子と暮らしながら、家を空けがちな夫の行動と、店で起きた金銭の問題に向き合うことになる。全篇を妻の丁寧な言葉遣いで語り、夫の文学者としての顔も、生活の中で接する姿から浮かび上がらせる。玄関でのやり取りから夫婦の過去へ話が移り、相手の言葉を受けとめる妻の声が物語を運ぶ。困窮する家庭と酒場のにぎわいが近接する、戦後の東京の生活も背景となっている。夫が抱える不安や理屈と、子を養い、その日の暮らしを支える妻の感覚との隔たりが、会話や態度の違いに表れる。大谷の内面を直接の独白で語らず、そのそばにいる人の目を通して描いた一篇。
あらすじ
年の暮れの深夜、詩人の大谷が泥酔して帰宅し、あとから中野の小料理屋「椿屋」の亭主夫婦が追ってくる。三年ものあいだ店の酒をただ飲みしてきた大谷が、今夜は仕入れの金五千円をつかんで逃げたのだ。夫はジャックナイフを振りかざして闇に消え、妻の「私」は一日だけ待ってほしいと頼んで夫婦を帰す。翌日、幼い坊やを背負って店を訪ねた「私」は、金が届くまで人質としてここにいると嘘をつき、そのまま働き始める。その夜、仮面をつけた夫が京橋のバーのマダムに連れられて現れ、金はマダムの立て替えで返された。「私」は溜まった勘定を働いて返すと申し出て、「椿屋のさっちゃん」として浮き浮きと店に出るようになる。だが店の客も道行く人も、みな後ろ暗い罪を抱えているように見えてくる。ある雨の夜、家まで送ってくれた夫のファンだという若い客を泊めた明け方、「私」はその男に身をけがされる。何も語らずに店へ出た「私」の前で、夫は新聞に「人非人」と書かれたことを気にしてみせる。「私」は答える。「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
登場人物
- 私(さっちゃん) 詩人の夫の借金の後始末に追われながらも、たくましく生きる語り手
- 夫(大谷) 放蕩を尽くす詩人。店の金を持ち逃げし「人非人」と呼ばれる
- 坊や 私と夫の幼い息子。発育が遅れている
人物相関図
章ごとの「詳細なあらすじ」
アプリでは、この作品を次の章立てで詳しく読めます(全文はアプリ内)。
- 一 この作品について
- 二 主要人物
- 三 主要なサブキャラクター
- 四 導入──深夜の帰宅とジャックナイフ
- 五 亭主の打ち明け話──「魔物」の三年間
- 六 人質の嘘──クリスマスの前夜の椿屋
- 七 仮面の夫──京橋のマダムの立て替え
- 八 椿屋のさっちゃん──「神がいる」ということ
- 九 雨の夜──工員ふうの若い客
- 十 結末──「生きていさえすればいいのよ」
- 十一 重要な設定と伏線
冒頭部(原文より)
あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。
「ヴィヨンの妻」太宰治(青空文庫)
末尾部(原文より)
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」 私は格別うれしくもなく、 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」 と言いました。
「ヴィヨンの妻」太宰治(青空文庫)
名文
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
放蕩を重ねる夫にさち子が返す最後の言葉。世間の道徳をまるごと引き受けたうえで、それでも生きることを選ぶ太宰後期の到達点。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。