売色鴨南蛮(泉鏡花)のあらすじ・登場人物
身を売って救ってくれた人
- 心理
- 恋愛
- 文字数
- 13,927字
- 読了目安
- 約28分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
貧しい書生時代の恩を描いた短編。1920年(大正9年)5月に発表された。雨の停車場で緋縮緬の狂女を見かけた医学博士が、若き日を思い出す。食うや食わずの書生だった自分を、身を売ってまで救ってくれた妾宅の女・お千。ひもじさと恥辱と優しさとが入り混じった記憶をたどって、物語は特等室の病床へたどりつく。題名は、彼女が食べさせてくれた一杯にちなむ。
あらすじ
雨の万世橋の停車場で、秦宗吉の目に留まったのは、緋縮緬の長襦袢を泥に濡らして腰かけた女であった。狂女らしいその姿から、宗吉の記憶は二十年余りをさかのぼる。貧しい書生だったころ、彼は熊沢という男の一党に食べさせてもらいながら、その妾宅へ使いに走らされていた。同じ長屋の甘谷らに嬲られ、石段を上り下りする空腹の日々。ある日、明神の裏で剃刀を咽喉に当てようとした宗吉を、抱きとめたのがお千さんであった。彼女は熊沢を捨て、身にも命にもかえて宗吉を助けると誓う。長じて医学博士となった宗吉は、特等室に入院した狂女のもとを、一個人として見舞う。
登場人物
- 秦宗吉 貧しい書生から身を起こした医学博士。若き日の恩を忘れない
- お千 熊沢の妾。身を捨てて宗吉を救おうとする女
- 熊沢 宗吉ら書生の面倒を見る、大実業家になると噂される男
- 甘谷 宗吉と同じ長屋にいた男。宗吉を嬲る
冒頭部(原文より)
はじめ、目に着いたのは――ちと申兼ねるが、――とにかく、緋縮緬であった。その燃立つようなのに、朱で処々ぼかしの入った長襦袢で。女は裙を端折っていたのではない。褄を高々と掲げて、膝で挟んだあたりから、紅がしっとり垂れて、白い足くびを絡ったが、どうやら濡しょびれた不気味さに、そうして引上げたものらしい。
「売色鴨南蛮」泉鏡花(青空文庫)
末尾部(原文より)
不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、徐ろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、 「いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ。」 やがて博士は、特等室にただ一人、膝も胸も、しどけない、けろんとした狂女に、何と……手に剃刀を持たせながら、臥床に跪いて、その胸に額を埋めて、ひしと縋って、潸然として泣きながら、微笑みながら、身も世も忘れて愚に返ったように、だらしなく、涙を髯に伝わらせていた。
「売色鴨南蛮」泉鏡花(青空文庫)
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。