普請中(森鴎外)のあらすじ・登場人物
日本はまだ普請中だ
- 恋愛
- 心理
- 文字数
- 4,440字
- 読了目安
- 約9分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
ドイツ帰りの官吏・渡辺参事官が、改築の最中にある木挽町の精養軒ホテルで、留学時代に関係のあった外国人の歌手と再会する一夕だけを描いた短篇。二人は昔のように軽口を交わすが、渡辺は「ここは日本だ」と繰り返して一線を引き、女の誘いにも動じない。釘を打つ音の絶えない建てかけのホテルと、近代化の途上にあった明治日本とが重ね合わされる。西洋を知った者が日本で生きることの醒めた心を、短い場面のなかに鮮やかに写し取った一篇。
あらすじ
渡辺参事官は雨あがりの木挽町を歩き、精養軒ホテルの小さな看板を見つける。中は普請の最中で、釘を打つ音や手斧をかける音が響いている。二階のサロンへ通された渡辺は、待っている相手が誰であろうとほとんどかまわないというような、自分でも不思議なほど冷えた心持ちで葉巻をくゆらせる。五時になって職人たちが帰り、静まったところへ現れたのは、大きな麦藁帽をかぶった一人の女であった。褐色の大きな目には見覚えがある。ドイツ語で「長く待たせて」と言うその人は、渡辺がドイツにいたころの恋人で、いまはウラジオストクから流れてきた歌手だった。伴奏者のポーランド人と旅を共にしていること、日本は当てにせずアメリカへ渡るつもりであることを、女は隠さずに話す。渡辺は「日本はまだ普請中だ」と言い、本当のフィリステルになりすましている自分を笑う。食堂へ移り、三人の給仕に囲まれて意味のない話をしながら食事が進む。女が「キスをして上げてもよくって」と誘っても、渡辺は「ここは日本だ」と繰り返すばかりである。やがて女が「あなた少しも妬んではくださらないのね」と、笑談のつもりが真面目な声になって言うと、渡辺は杯を盛花より高く掲げ、同行の男の名を挙げて乾杯した。凝り固まったような微笑を浮かべた女の手は、人には知れぬほど顫えていた。八時半ごろ、ヴェールに深く顔を包んだ女を乗せた車が、燈火の海のような銀座通りを横切って芝の方へ駈けて行った。
登場人物
- 渡辺参事官 ドイツ留学から帰り、官吏として勤める男
- 女 ドイツ時代に渡辺と恋仲だった歌手。ロシアを経て日本に立ち寄り、アメリカへ渡ろうとしている
- コジンスキイ 女と旅を共にするポーランドの伴奏者
冒頭部(原文より)
渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。 雨あがりの道の、ところどころに残っている水たまりを避けて、木挽町の河岸を、逓信省の方へ行きながら、たしかこの辺の曲がり角に看板のあるのを見たはずだがと思いながら行く。 人通りはあまりない。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのにあった。それから半衿のかかった着物を着た、お茶屋のねえさんらしいのが、なにか近所へ用たしにでも出たのか、小走りにすれ違った。まだ幌をかけたままの人力車が一台あとから駈け抜けて行った。 果して精養軒ホテルと横に書いた、わりに小さい看板が見つかった。
「普請中」森鴎外(青空文庫)
末尾部(原文より)
女が突然「あなた少しも妬んではくださらないのね」といった。チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。女は笑談のようにいおうと心に思ったのが、はからずも真面目に声に出たので、くやしいような心持がした。 渡辺はすわったままに、シャンパニエの杯を盛花より高くあげて、はっきりした声でいった。 “Kosinski soll leben !” 凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯をあげた女の手は、人には知れぬほど顫っていた。 まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面を包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
「普請中」森鴎外(青空文庫)
原文を読む
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