博士の目(山川方夫)のあらすじ・登場人物
私は魚や鳥の仲間です
- 幻想
- ミステリ
- 文字数
- 5,798字
- 読了目安
- 約12分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
動物本能研究の世界的権威、ロレンス博士をたずねた「私」は、その茶色く澄んだ目の奥に、人を引きずりこまずにはおかぬ奇妙なひろがりを見る——山川方夫の連作「親しい友人たち」の一編。百三十羽の家鴨の顔も声も夫婦関係もすべて知り尽くした老博士は、結氷した池に向かって奇妙な叫び声をあげ、よちよちと歩いてきた一羽を「ミセス・デーヴィス」と紹介した。人間の世界の外側がそっと開く、静かな幻想譚。
あらすじ
学会のついでにマックス・プランツ研究所をたずねた「私」を、六十二歳の博士は門によりかかって一人で待っていてくれた。国立とは思えない粗末な赤煉瓦の母屋と温室、物置のような小舎が三つ四つ。「ここには、四季の変化しか変化がない」と博士は笑い、「じつのことをいえばね、人間という動物は、私には複雑すぎ、高級すぎるのです。私は、むしろ魚や鳥の仲間なのです」といった。午後の数時間を水族館の水槽の前ですごし、疲れた「私」を博士は池の放し飼いの家鴨へ誘う。氷の上の浮御堂のような小舎で、双眼鏡をのぞく若い助手夫人は語る。先生は全部の鳥の顔、声、性質、癖、夫婦関係から健康状態まで手にとるように知っていて、一羽いなくなってもすぐわかるのだ、と。「私は、関係で見るのですよ」と博士はいう。異常をおこした一羽はたちまち群から疎外され、追放される。脳に腫瘍のできた一羽もそうして死んだ。……そのとき博士は、ある婦人の話をはじめた。見学に来たミセス・デーヴィスという女性が、その家鴨の声を聞いて血相をかえ、「あれは私の夫の声です」「あれは私の夫の顔です!」と叫んだこと。朝鮮で大脳に爆弾の破片をうけて帰還した夫が、いつのまにか行方不明になっていること。——突然、博士は池に向かって手を口に当て、奇妙な叫びごえを二、三度あげた。氷の上を一羽の家鴨がよちよちとまっすぐこちらへ向かってくる。「ご紹介します。……ミセス・デーヴィスです」。窓枠にとまった家鴨と博士は、まったく同じ目で見合っていた。
登場人物
- 私 日本から学会に参加した心理学者
- ロレンス博士 動物の内因性行動の世界的権威。六十二歳
- ミセス・デーヴィス 博士がそう名づけた一羽の雌の家鴨
冒頭部(原文より)
私がマックス・プランツ研究所にロレンス博士をたずねたのは、数年前の早春のある日である。たまたま、近くの大学で国際動物学会が開催され、わざわざ日本から参加した私は、高名な博士に逢える機会を逃したくなかったのだ。博士は、動物本能の――正確には、動物の内因性行動に関しての、世界的な権威である。たぶん、博士の名を知らない心理学者、ことに動物心理学者はいないだろう。 だが、そのとき私の印象にもっとも強くのこったのは、博士の目である。それは、茶色がかった明るく澄んだ色だったが、その奥にやさしく茫漠としたひろがりを感じさせて、すべての人びとをその底に引きずりこまずにはおかぬような、奇妙な深いものをたたえた目なのである。
「博士の目」山川方夫(青空文庫)
末尾部(原文より)
ホテルの一室で、私はびっしょりと全身に汗をかいて目ざめた。まだ闇に近い部屋の中を見まわし、私はしばらく博士のあの呪術的な茶色く透明な凝視が、どこからか私をみつめているような気がしていた。 やさしく茫漠としたあのひろがり、しずかな深い世界。私は、むしろ魚や鳥の仲間なのです。博士のそんな声が、どこかから聞こえてくるような気がしていた。――私は、そしてふと思ったのだ。明日、あの研究所の池の水溜りに、一羽の雄の家鴨がまぎれこむのではないだろうか。博士は、それに私の名をつけるのではないだろうか、と。……
「博士の目」山川方夫(青空文庫)
原文を読む
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