入れ札(菊池寛)のあらすじ・登場人物
札一枚に露れる人の見栄
- 歴史
- 心理
- 文字数
- 9,444字
- 読了目安
- 約19分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 群馬県
この作品について
菊池寛が1921年(大正10年)、「中央公論」に発表した短編小説。官憲に追われて信州へ落ちのびる国定忠次一家を題材にした時代小説である。子分が多すぎては足手まといになるため、忠次に付き従う数人を「入れ札(投票)」で決めることになる。年かさの子分・九郎助をはじめ、それぞれの思惑が札一枚に向かって交錯する。名を惜しむ人間の見栄を鋭くえぐった、菊池文学らしいテーマ小説の佳品。
あらすじ
上州の代官を斬った国定忠次一家は、八州の捕方に追われ、赤城山を逃れて信州路へと落ちていく。だが、十四、五人もの子分を引き連れていては、かえって足がつきやすい。そこで、忠次に付き従う者を数人にしぼり、残りは別々に落ちのびることとし、誰が忠次に従うかを「入れ札」――めいめいが従うべき者の名を書いて投じる投票で決めることになった。古参の子分でありながら、近ごろ影の薄くなっていた九郎助は、どうしても自分が選ばれたいと願うあまり、人目を盗んで自分の名を書いた札をもう一枚こっそり札箱に入れてしまう。ところが開票してみると、九郎助自身に入った票がある。それは弥助という子分が、九郎助にへつらって「あんたに入れた」と嘘をついたものだった。自分の卑しい不正が、口先だけの弥助にすら見抜かれず、しかもその弥助の嘘によって図らずも露見しかけたことに、九郎助は身の置きどころもない恥ずかしさを覚える。口先の嘘さえ考えつかぬほど、自分は卑しいことをしたのだ――そう思い至った九郎助の胸には、晴れた上州の空も、鳴きわたる小鳥の声も、味気ないものに映るのだった。名を惜しむ人間の見栄とみじめさを、菊池が鋭くえぐり出した一編である。
登場人物
- 九郎助 国定忠次の古参の子分。忠次に従う者を選ぶ入れ札で、選ばれたさに自分の名の札を二枚入れる不正を犯し、恥に苦しむ
- 弥助 子分の一人。九郎助にへつらって「あんたに入れた」と嘘をつく
- 国定忠次 上州の侠客。捕方に追われ、子分を入れ札で選んで信州へ落ちのびる
冒頭部(原文より)
上州岩鼻の代官を斬り殺した国定忠次一家の者は、赤城山へ立て籠って、八州の捕方を避けていたが、其処も防ぎきれなくなると、忠次を初、十四五人の乾児は、辛く一方の血路を、斫り開いて、信州路へ落ちて行った。 夜中に利根川を渡った。渋川の橋は、捕方が固めていたので、一里ばかり下流を渡った。水勢が烈しいため、両岸に綱を引いて渡ったが、それでも乾児の一人は、つい手を離したため流されてしまった。
「入れ札」菊池寛(青空文庫)
末尾部(原文より)
その上、自分に大嘘を吐いている弥助でさえ、自分があんな卑しい事をしたのだとは、夢にも思っていなければこそ、こんな白々しい嘘を吐くのだと思うと、九郎助は自分で自分が情けなくなって来た。口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえが考え付かないほど、自分は卑しいのだと思うと、頭の上に輝いている晩春のお天道様が、一時に暗くなるような味気なさを味った。 山の多い上州の空は、一杯に晴れていた。峰から峰へ渡る幾百羽と云う小鳥の群が、黄い翼をひらめかしながら、九郎助の頭の上を、ほがらかに鳴きながら通っている。行手には榛名が、空を劃って蒼々と聳えていた。
「入れ札」菊池寛(青空文庫)
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