火星の運河(江戸川乱歩)のあらすじ・登場人物
夢幻と残虐美の散文詩
- 怪奇
- 幻想
- 文字数
- 4,715字
- 読了目安
- 約9分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
江戸川乱歩が1926年(大正15年)、「新青年」に発表した、物語らしい筋を持たない異色の散文詩的作品。果てしない暗黒の森をさまよう「私」が、底なしの沼のほとりで自らが美しい女の裸身に変じているのを見出し、狂おしい舞踏と自傷の果てに、全身を血に染めて「火星の運河」の模様を描き出す——夢と幻想と残虐美が渾然と溶け合う、乱歩の耽美的想像力が凝縮された一編である。
あらすじ
「又あすこへ来たな」という寒いような魅力に戦きながら、「私」は、音も匂いも触覚さえも失われた、鈍色の暗黒に閉ざされた果てしない大森林の下闇を、行方も定めずさまよっている。歩いても歩いても景色は変わらず、森の無限が奥底知れぬ恐怖となって「私」に迫る。やがて薄明のなかにたどり着いたのは、森の真ん中にひらけた、直径一町ばかりの底なしの黒い沼だった。その岸に立った「私」は、ふと自分の裸の身体が、男のものではなく、豊満な乙女の肉体——恋人にそっくりの美しい肉体——に変じているのを見出す。「私」は沼の中央の黒い岩の上に立ち、この世のものならぬ灰色の景色を背景に、狂おしい舞踏を演じはじめる。だが、この完璧な画面には、たった一つ「紅の一色」が欠けていた。「私」は鋭い爪で全身に縦横無尽の傷をつけ、したたる血で身体を真赤に染めあげる——沼の水面に映るその姿は、まさに気味の悪い「火星の運河」だった。狂乱の舞の果て、「あなた、あなた」と呼ぶ声に目を覚ますと、それは夢で、鼻先には恋人の巨大な顔が動いていた。夢・幻想・残虐美が溶け合う、乱歩の異色の散文詩的作品である。
冒頭部(原文より)
又あすこへ来たなという、寒い様な魅力が私を戦かせた。にぶ色の暗が私の全世界を覆いつくしていた。恐らくは音も匂も、触覚さえもが私の身体から蒸発して了って、煉羊羹の濃かに澱んだ色彩ばかりが、私のまわりを包んでいた。 頭の上には夕立雲の様に、まっくらに層をなした木の葉が、音もなく鎮り返って、そこからは巨大な黒褐色の樹幹が、滝をなして地上に降り注ぎ、観兵式の兵列の様に、目も遙に四方にうち続いて、末は奥知れぬ暗の中に消えていた。
「火星の運河」江戸川乱歩(青空文庫)
末尾部(原文より)
「あなた。何をうなされていらっしゃるの」 ボンヤリ目を開くと、異様に大きな恋人の顔が、私の鼻先に動いていた。 「夢を見た」 私は何気なく呟いて、相手の顔を眺めた。 「まあ、びっしょり、汗だわ。…………怖い夢だったの」 「怖い夢だった」
「火星の運河」江戸川乱歩(青空文庫)
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