仮装人物(徳田秋声)のあらすじ・登場人物
老作家が溺れた奔放な恋
- 恋愛
- 心理
- 文字数
- 194,250字
- 読了目安
- 約6時間28分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
- 秋田県
- 神奈川県
この作品について
徳田秋声が1935年(昭和10年)7月から1938年(昭和13年)8月まで、雑誌「経済往来」(同年10月に「日本評論」と改題)に断続的に連載した長編小説。妻を亡くした秋声自身と、作家志望の山田順子との恋愛事件を素材に、初老の作家・庸三と、美貌で奔放な文学志望の女・梢葉子との数年にわたる関係を描く。かつての自分を道化めいた「仮装」の姿として振り返る語りのもと、恋の高揚も嫉妬も世間の嘲りも、苦い自嘲を込めて突き放した筆で写し取っている。昭和初期の文壇やカフェ、待合の風俗も織り込まれ、第1回菊池寛賞を受けた晩年の代表作である。
あらすじ
妻を亡くしたばかりの初老の作家・庸三のもとへ、かつて北海道から長編の原稿を持ち込んできた美貌の人妻、梢葉子が現れる。夫の破産で離別し、出版人の一色や画家の山路草葉と浮名を流してきた葉子は、家事を手伝いたいと申し出て、やがて庸三と恋仲になる。世間の噂や子供たちの反発をよそに、庸三は葉子の秋田の郷里を訪ね、娘の瑠美子を引き取った葉子と暮らし始めるが、気まぐれな彼女はたびたび家を飛び出し、郷里の歌人・秋本からの援助も手放さない。痔瘻の手術を受けた葉子は執刀医のK博士と親しくなり、逗子では庸三の長男の同窓の青年・園田と結婚話を進めるなど、次々に相手を替えていく。嫉妬に苛まれる庸三は探偵まがいに後を追い、殴っては追い出し、呼び戻されては許すことを繰り返し、待合の女将・小夜子のもとで憂さを晴らす。庸三が記者に漏らした悪口が記事になって園田との縁談が壊れると、葉子は庸三の首を絞めるほど荒れ、入籍の話も長男の反対で流れて、二人は手切れ金で別れる。それでも縁は切れず、やがて葉子は舞踊家・雪枝の愛人だった若い文学者・清川と同棲するが、結婚を拒まれて捨てられる。アパートで懸賞小説に挑んだ葉子は、庸三との口論の末に黙って姿を消し、のちに渋谷で書店を開く。ダンスホールに通い始めた庸三の胸から、葉子の幻影は次第に薄れていった。
登場人物
- 庸三 妻を亡くした初老の作家。葉子に溺れ、嫉妬と未練に振り回されつづける
- 梢葉子 秋田出身の美貌の文学志望の女。夫と別れて庸三のもとに入り込むが、次々に男を替えていく
- 庸太郎 庸三の長男。父と葉子の関係に反発しつつ、葉子の動きを父に伝える
- 咲子 庸三の末娘。母を亡くし、手触りのやさしい葉子になつく
- 狭山小夜子 川べりの待合の女将。ドイツ貴族との同棲を経た艶やかな女で、庸三の気の置けない遊び相手
- 一色 若い劇作家で出版人。葉子の処女作を本にし、パトロン格の愛人となる
- 秋本 葉子の郷里の素封家で歌人。葉子に仕送りを続ける
- 清川 舞踊家・雪枝の若い愛人の文学者。葉子と同棲するが、結婚を拒む
冒頭部(原文より)
一 庸三はその後、ふとしたことから踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、ある時のダンス・パアティの幹事から否応なしにサンタクロオスの仮面を被せられて当惑しながら、煙草を吸おうとして面から顎を少し出して、ふとマッチを摺ると、その火が髯の綿毛に移って、めらめらと燃えあがったことがあった。その時も彼は、これからここに敲き出そうとする、心の皺のなかの埃塗れの甘い夢や苦い汁の古滓について、人知れずそのころの真面目くさい道化姿を想い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、扮飾され歪曲された――あるいはそれが自身の真実の姿だかも知れない、どっちがどっちだかわからない自身を照れくさく思うのであった。自身が実際首を突っ込んで見て来た自分と、その事件について語ろうとするのは、何もそれが楽しい思い出になるからでもなければ、現在の彼の生活環境に差し響きをもっているわけでもないようだから、そっと抽出しの隅っこの方に押しこめておくことが望ましいのであるが、正直なところそれも何か惜しいような気もするのである。ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女と逢って、一回だけトロットを踊ってみた時、「怡しくない?」と彼女は言うのであったが、何の感じもおこらなかった庸三は、そういって彼を劬わっている彼女を羨ましく思った。彼は癒えきってしまった古創の痕に触わられるような、心持ち痛痒いような感じで、すっかり巷の女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体を引っ張っているのが物憂かった。 今庸三は文字どおり胸のときめくようなある一夜を思い出した。 その時庸三は、海風の通って来る、ある郊外のコッテイジじみたホテルへ仕事をもって行こうとして、ちょうど彼女がいつも宿を取っていた近くの旅館から、最近母を亡くして寂しがっている庸三の不幸な子供達の団欒を賑わせるために、時々遊びに来ていた彼女――梢葉子を誘った。
「仮装人物」徳田秋声(青空文庫)
末尾部(原文より)
大分たってから、渋谷に書店を開き、その奥を若い人たちのサロンにして、どうにか生活の道に取りついた時、葉子もそれを庸三に見てもらいたく、北山をわざわざ使いに立てて会見を求めて来た。 その時庸三は待ち合わせていた葉子につれられて、その店を見に行ったが、二三度訪ねるうちに、ちょうど店番や書籍の配達などに働いていた青年は、三丁目のおでんやの文学青年で、その男の口から、葉子の近頃の消息も時々庸三の耳に伝わり、彼女の憧憬の的となっていたコレット女史を逆で行ったような巷の生活が発展しそうに見えた。 そのころ庸三はふとした機会から、踊り場へ足踏みすることになり、そこで何かこだわりの多い羽織袴の気取りもかなぐり棄てて、自由な背広姿になり、恋愛の疲れを癒すこともできた。そしてその時分から埃塗れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。
「仮装人物」徳田秋声(青空文庫)
原文を読む
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