菊屋敷(山本周五郎)のあらすじ・登場人物
菊畑の屋敷に生きる女の決意
- 歴史
- 家族
- 文字数
- 36,508字
- 読了目安
- 約1時間13分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 長野県
この作品について
山本周五郎が1945年(昭和20年)10月、講談社の産報文庫の一冊『菊屋敷』として刊行した中編小説。信州松本藩の儒官だった亡父の村塾を守り、城下から一里あまり離れた栢村の屋敷で、乳母と老僕とともに静かに暮らす志保が主人公である。器量に恵まれないと思い定めて学問に打ち込み、父にそれを禁じられた過去をもつ志保のもとへ、月命日ごとに父の門人十七人が墓参に集まってくる。霧の深い朝に菊を剪る場面に始まり、菊の咲く秋に閉じる構成で、一人の女の生き方と、門人たちが学問にこめた志とが重ねて描かれる。戦時下に書かれた作品らしく、大義や忠節を語る言葉が多く織り込まれている。
あらすじ
松本藩の儒官・黒川一民が亡くなって二年、姉娘の志保は栢村の別墅で父の村塾を続けている。美しい妹の小松は、塾生のなかでも秀才だった高田藩士・園部晋吾に嫁ぎ、男の子・晋太郎をもうけた。父の忌日の朝、志保は菊を剪りながら、なにかよいことがありそうな予感を覚える。その日、門人の杉田庄三郎らは、父から『靖献遺言』の講義を受けた志保に、自分たちの師になってほしいと頼む。やがて塾に、名を記さない一通の手紙が置かれていた。以前に実朝の歌を書き送ってきたのと同じ人で、志保への思いを打ち明け、会ってほしいと寺の名を記していた。志保が心を決めかねているところへ、晋吾が藩を退いて生活に窮した小松夫婦が訪ねてきて、晋太郎を預かってほしいと頼む。志保は手紙の主に会うことをあきらめ、晋太郎を育てることに一生をささげると決める。厳しく、しかし愛情をこめて晋太郎を育てるかたわら、門人たちが国史を学び、命を捨てても大義を守ろうとしていることを知り、手紙の主は庄三郎ではないかと思い悩む。年月が過ぎ、晋太郎を返してほしいと小松が願い出ると、志保は晋太郎自身の心に任せ、晋太郎は自ら江戸へ行くことを選ぶ。そのとき、目付の役人たちが塾へ集まっていた門人たちを捕らえに来る。曳かれてゆく庄三郎は志保に別れの言葉を残し、志保は晋太郎とともに門人たちの姿を伏し拝む。秋、ふたたび一人で菊畑に立った志保は、去っていった二つの幸福がどちらもこの屋敷から自分の心へと続いていることに思い至り、自分は決して独りではないと感じる。
登場人物
- 志保 松本藩の儒官だった黒川一民の姉娘。父の村塾を守る
- お萱 志保と小松の乳母。屋敷で志保に仕える
- 小松 志保の妹。美しく勝ち気で、園部晋吾に嫁ぐ
- 園部晋吾 小松の夫。父の塾の秀才だった高田藩士
- 晋太郎 小松と晋吾の長男。志保に預けられて育つ
- 杉田庄三郎 一民の門人の最年長。志保を師と仰ぐ
冒頭部(原文より)
志保は庭へおりて菊を剪っていた。いつまでも狭霧の霽れぬ朝で、道をゆく馬の蹄の音は聞えながら、人も馬もおぼろにしか見えない。生垣のすぐ外がわを流れている小川のせせらぎも、どこか遠くから響いてくるように眠たげである、……露でしとどに手を濡らしながら、剪った花をそろえていると、お萱が近寄って来て呼びかけた。
「菊屋敷」山本周五郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
そこまで思い続けてきて、志保はふと眼を空へあげた。……去っていった二つの幸福はかえらない、けれどもその二つは、どちらもこの菊屋敷で育ったのである、この家で成長し、この家から出ていった、江戸へ送られたという門人たちの道も、小松の許へ去った晋太郎の道も、まっすぐにこの菊屋敷の門へ、志保の心へと続いているのだ、門人たちは罪死するかも知れないが、跡を継ぐ者によってその道の絶えることはあるまい、晋太郎は自分のさし示した道を逞ましく生きて呉れるだろう、両方ともそれぞれに生きてゆく、……自分は決して独りではないのだ。空をふり仰いだ志保の胸に、新らしい、力づよい感慨がこみあげてきた、そして鋏をとり直し、菊の花枝を剪ろうと身を跼めたとき、母屋のほうからお萱の呼ぶ明るいこえが聞えてきた。 「……お嬢さま、お髪をおあげ申しましょう、お支度ができましたから」
「菊屋敷」山本周五郎(青空文庫)
原文を読む
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