琴の音(樋口一葉)のあらすじ・登場人物
垣根越しに聞こえる琴
- 心理
- 文字数
- 3,026字
- 読了目安
- 約6分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
樋口一葉が1893年(明治26)12月に『文學界』へ発表した短編。幼い頃に母と別れ、父も失った少年・金吾が、秋の夜、垣根の向こうから聞こえてくる琴の音にひかれる。月の光と琴の音に託して、少年の孤独な心を描いた小品である。
あらすじ
渡辺金吾は、四つの歳に母が実家の親にそそのかされて家を出て以来、酒におぼれた父にも死に別れ、天涯孤独のうちに世の情なさを知って育った少年である。父の無惨な最期を見て、母の仕打ちを悪魔のようだと恨み、浮世に誠なきものと思い定めた金吾の心は、年を経るごとに巌のようにねじけていく。掏摸だ盗人だと万人にののしられ、警察にも睨まれて、ついには「渡辺の金吾は誠の盗賊」と噂される身に落ちぶれ、死を思ったことも一度ならずあった。ある秋雨の夜、根岸の森江しづという女あるじの家に忍び寄った金吾の耳に、しづが独り爪弾く琴の音が届く。月澄む霜夜、天上の楽にも似た清らかなその調べは、金吾の心の奥にひそんでいた優しさを呼びさまし、こらえきれぬ涙をあふれさせる。かつて悪魔と恨んだ母の懐かしさまでが身にしみて、金吾は今さらのように、この世の捨てがたさを知る。姿さえ見ぬ琴の主の音色を百年の友として、金吾はようやく花咲く世へと歩み出していく。
登場人物
- 渡辺金吾 四つで母に去られ、父を酒で失って世に見捨てられ、悪の道へ傾いた少年。琴の音に救われる
- 森江しづ(お静) 根岸に独り住む十九の女。琴の道に一身を投げ入れ、金吾が忍び寄る家のあるじ。金吾はその姿を見ることなく音色だけを聞く
- 金吾の母 金吾が四つのとき、実家の親にすすめられて夫と子を捨てて家を出た
- 金吾の父 妻に去られた後、酒におぼれて無惨な最期をとげる
冒頭部(原文より)
空に月日のかはる光りなく、春さく花のゝどけさは浮世万人おなじかるべきを、梢のあらし此処にばかり騒ぐか、あはれ罪なき身ひとつを枝葉ちりちりの不運に、むごや十四年が春秋を雨にうたれ風にふかれ、わづかに残る玉の緒の我れとくやしき境界にたゞよふ子あり。母は此子が四つの歳、みづから家を出でゝ我れ一人苦をのがれんとにもあらねど。
「琴の音」樋口一葉(青空文庫)
末尾部(原文より)
射る矢も此処にたちがたき身の、果は臭骸を野山にさらして、父が末路の哀れやまなぶらん、さらずば悪名を路傍につたへて、腰に鎖のあさましき世や送るらん、さても心の奥にひそまりし優しさは、三更月下の琴声に和して、こぼれ初めぬる涙、露の玉か、玉ならば趙氏が城のいくつにも替へがたし、恋か情か、其人の姿をも知らざりき、わづかに洩れ出る柴がきごしの声に、うれしといふ事も覚えぬ、恥かしさも知りぬ、かねては悪魔と恨らみたる母の懐かしさゝへ身にしみて、金吾は今さら此世のすて難きを知りぬ、月はいよ/\冴ゆる夜の垣の菊の香たもとに満ちて、吹くや夜あらし心の雲を払らへば、又かきたつる琴のねの、あはれ百年の友とや成るらん、百年の悶へをや残すらん、金吾はこれより百花爛熳の世にいでぬ
「琴の音」樋口一葉(青空文庫)
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