経づくえ(樋口一葉)のあらすじ・登場人物
医師と孤児の娘
- 恋愛
- 心理
- 文字数
- 6,908字
- 読了目安
- 約14分
- 表記
- 旧字旧仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
樋口一葉が1892年(明治25)10月に『甲陽新報』へ発表した短編。身寄りのない子供っぽい娘が、世話を焼く若い医師をかたくなに遠ざけるところから始まる。題の「経机」は、仏前に経を置く机のこと。素直になれない娘の心の動きを、やや皮肉な目も交えて描く。
あらすじ
医科大学の評判の若医師・松島忠雄は、静岡士族の出で人品も才学も申し分なく、華族や高官から数多の縁談が寄せられるが、ことごとく断って周囲に不審がられていた。松島が退院がけにいつも立ち寄る本郷森川町の家には、香月その(お園)という美しい娘が独り住んでいる。お園は旧幕臣・香月左門の忘れ形見で、父を上野の戦に、母を十四のときに失った孤児であった。松島は亡き母の病床に招かれた縁からお園の世話を引き受け、帰り道に読み書きを教えて可愛がるが、極端に子供っぽいお園は松島を煙たがり、車の音がすると隠れるほど嫌う。長年仕える老婢のお民は、これほど尽くしてくれる松島への恩知らずをお園に説き聞かせる。やがて松島は札幌の病院長に任じられ、三年か五年の別れを告げて発つ。そのとき松島は、金の指輪をそっとお園の袖に残していった。松島が去って初めて、お園は急に大人びて指輪をはめ、北海道の地図に見入るようになる。だが松島はその秋、患者から腸チフスに感染し、三十を待たずに北海道の土となる。訃報を聞いたお園は世を捨てるように暮らし、医学部教授との再縁を勧められても、松島に約束はなくとも身に染みた思いは生涯忘れがたいと、形ばかりならと言って心は許さぬと答える。経机はそのゆかりのものである。
登場人物
- 香月その(お園) 旧幕臣・香月左門の忘れ形見。極端に子供っぽい孤児の娘で、世話を焼く松島を疎んじるが、その死後に初めて恋心を悟る
- 松島忠雄 医科大学の評判の若医師。静岡士族の出。お園を世話し可愛がるが、札幌へ赴任した先で腸チフスに感染して病没する
- お民 香月家に十年あまり仕える老婢。お園を我が子のように案じ、松島への恩を説く
- 香月左門 お園の父。旧幕臣で、上野の戦に散った
冒頭部(原文より)
哀れ手向の花一枝に千年のちぎり萬年の情をつくして、誰れに操の身はひとり住、あたら美形を月花にそむけて、世は何時ぞとも知らず顏に、繰るや珠數の緒の引かれては御佛輪廻にまよひぬべし、ありしは何時の七夕の夜、なにと盟ひて比翼の鳥の片羽をうらみ、無常の風を連理の枝に憤りつ、此處閑窓のうち机上の香爐に絶えぬ烟りの主はと問へば。
「経づくえ」樋口一葉(青空文庫)
末尾部(原文より)
眞の愛なき契りは捨てヽ再縁する人も有べし、素より彼の人に約束の覺えなく増して操の立てやうもなけれど、何處とも知らず染みたる思ひは此身ある限り忘れ難ければ、萬一かの教授さま達て妻にと仰せのあらば、形だけは參りもせん心は容易くたてまつり難しと傳へ給へと、事もなく言ひて聞きいれる景色のなきに、お民いひ甲斐なしと斷念して夫れよりは又進めずとぞ、經机の由縁かくの如し。或る口の惡るきお人これを聞きて、扨もひねくれし女かな、今もし學士が世にありて札幌にもゆかず以前の通り生やさしく出入りをなさば、虫づのはしるほど嫌やがる事うたがひなしと苦笑ひして仰せられしが『ある時はありのすさびに憎くかりき、無くてぞ人は戀しかりける』とにも角にも意地わるの世や意地惡るの世や。
「経づくえ」樋口一葉(青空文庫)
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