沼夫人(泉鏡花)のあらすじ・登場人物
夜ごと押し寄せる泥の水
- 幻想
- 怪奇
- 文字数
- 39,569字
- 読了目安
- 約1時間19分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
沼にまつわる水の幻を描いた中編。1908年(明治41年)6月に発表された。旅先の医家の診察室に泊まった青年が、真夜中に泥水の押し寄せる幻に襲われる。田圃を浸す水、沼から流れ出た白骨、そして一夜の縁で浮名を流した女——現実と幻の境が曖昧なまま、物語は蒼い沼へと収斂していく。水の描写にかけての鏡花の筆が存分に発揮された一篇。
あらすじ
「ああ、奥さん」——自分の声で目を覚ました小松原は、真暗な室内で、誰かに呼ばれたのだと思う。旅の宿として借りたのは、医師の家の診察室。棚には嬰児や蝮を酒精に浸けた瓶が並び、解剖図が下がっている。窓を開けたまま眠った夜半、卓子の脚を伝い、床に泥水がひたひたと浸み出してくる。轟く洪水でもなく、ただじとじとと押し寄せるその水は、やがて部屋を浸していった。梅雨あけの水嵩が増した頃、沼の底から流れ出たという白骨——それは、この土地で小松原と浮名を流した女のものであった。白骨を沼へ返す使者に、彼は自ら望んで立つ。
登場人物
- 小松原 哲学を学ぶ青年。旅先で医家の診察室に泊まり、水の幻に襲われる
- 医学士 小松原を泊めた土地の医師。話を聞いて盃を挙げる
- 夫人 沼にまつわる女。小松原と一夜の縁で浮名を流した
- 正吉 医師の家の者。沼に落ちた小松原を救う
冒頭部(原文より)
「ああ、奥さん、」 と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室内は真暗で黒白が分らぬ。寝てから大分の時が経ったらしくもあるし、つい今しがた現々したかとも思われる。 その現々たるや、意味のごとく曖昧で、虚気としていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚束ないが、 「ああ、奥さん、」 と返事をした声は、確に耳に入って、判然聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身体のどっかが、がっくりと窪んだ気がする。
「沼夫人」泉鏡花(青空文庫)
末尾部(原文より)
呀と思うと、自分の足は、草も土も踏んではおらず、沼の中なる水の上。 今はこうと、まだ消え果てぬ夫人に縋ると、靡くや黒髪、溌と薫って、冷く、涼く、たらたらと腕に掛る。 …………小松原は、俯向けに蒼沼に落ちた処を、帰宅のほどが遅いので、医師が見せに寄越した、正吉に救われた。 車夫は沼の隅の物音に、提灯を差出したが、芭蕉の森に白刃が走る月影に恐をなして、しばらく様子を見ていたと言う。 小松原が恢復して、この話をした時、医学士は盃を挙げて言った。 「昔だと、仏門に入る処だが、君は哲学を学っとる人だから、それにも及ぶまい。しかし、蒼沼は可怪しいな。」
「沼夫人」泉鏡花(青空文庫)
原文を読む
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