興津弥五右衛門の遺書(初稿)(森鴎外)のあらすじ・登場人物
殉死の遺書という最初の形
- 歴史
- 心理
- 文字数
- 4,492字
- 読了目安
- 約9分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 京都府
この作品について
1912年(大正元年)10月の「中央公論」に載った、鴎外の歴史小説の最初の作品の初稿。乃木希典夫妻の殉死の直後に書かれた。細川家に仕えた老武士・興津弥五右衛門が、殉死の当日に書き遺した遺書という形をとり、全編が候文で綴られる。末尾には、翁草などを参考にしたこと、年代の食い違いを改めて万治元年の十三回忌としたことなど、鴎外自身による考証の付記がある。のちに新たな史料を得て書き改められ、改稿版は単行本『意地』に収められた。本作はその前の最初の形で、改稿版とは細部が異なる。
あらすじ
老いた興津弥五右衛門は、京都の船岡山の西麓に草庵を営み、僧のような暮らしをしている。万治元年十二月二日、先主人の松向寺殿(細川三斎)の十三回忌のこの日に切腹すると決め、子孫に事情を知らせるため遺書をしたためる。三十余年前、若い弥五右衛門は主命で長崎へ遣わされ、珍しい伽羅の木を買い求めることになった。仙台の伊達家の役人と本木を競り合う弥五右衛門に、同役は、香木に大金を投じるのは無用の翫物だと諫める。主命を第一とする弥五右衛門と同役は激しく論じ合う。同役が抜き打ちに斬りかかってきたため、弥五右衛門は唐金の花瓶で受け止めて刀を取り、ただ一打に相手を討ち果たした。帰国して香木を献じ、切腹を願い出たが、松向寺殿は申し条をもっともと認めて赦し、討たれた者の嫡子と盃を交わさせた。香はのちに二条の行幸で天皇の賞美を受け、「白菊」と名づけられて細川家の誉れとなった。その後も弥五右衛門は三代の主君に引き立てられ、死に場所を得られぬまま年を重ねたが、いま十三回忌を迎え、窓の雪明りのもとで腹を切ると結んでいる。
登場人物
- 興津弥五右衛門 細川家に仕えた老武士。出家に近い暮らしをしながら、先主人の十三回忌に殉死する決意を遺書に残す
- 松向寺殿(細川三斎) 弥五右衛門の先主人。討ち果たした一件を赦し、香木の銘を「初音」とつけた
- 同役(相役) 長崎へ同行した武士。香木に大金を使うことをめぐって弥五右衛門と争い、刀を抜く
冒頭部(原文より)
某儀今年今月今日切腹して相果候事いかにも唐突の至にて、弥五右衛門奴老耄したるか、乱心したるかと申候者も可有之候えども、決して左様の事には無之候。某致仕候てより以来、当国船岡山の西麓に形ばかりなる草庵を営み罷在候えども、先主人松向寺殿御逝去遊ばされて後、肥後国八代の城下を引払いたる興津の一家は、同国隈本の城下に在住候えば、この遺書御目に触れ候わば、はなはだ慮外の至に候えども、幸便を以て同家へ御送届下されたく、近隣の方々へ頼入り候。某年来桑門同様の渡世致しおり候えども、根性は元の武士なれば、死後の名聞の儀もっとも大切に存じ、この遺書相認置き候事に候。
「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」森鴎外(青空文庫)
末尾部(原文より)
某平生朋友等無之候えども、大徳寺清宕和尚は年来入懇に致しおり候えば、この遺書国許へ御遣わし下され候前に、御見せ下されたく、近郷の方々へ頼入り候。 この遺書蝋燭の下にて認めおり候ところ、只今燃尽き候。最早新に燭火を点候にも及ばず、窓の雪明りにて、皺腹掻切候ほどの事は出来申すべく候。
「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」森鴎外(青空文庫)
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