竜潭譚(泉鏡花)のあらすじ・登場人物
躑躅の紅に迷う少年
- 幻想
- 怪奇
- 文字数
- 14,911字
- 読了目安
- 約30分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
1896年(明治29年)11月、『文芸倶楽部』に発表された泉鏡花の小説。姉から一人で行かぬよう言われていた少年が、ひそかに躑躅の丘へ出かける。花の紅に囲まれ、光る虫を追ううちに、来た道が分からなくなってしまう。長く続く坂を上り下りし、ようやく聞きつけたのは、かくれんぼをする子供たちの声だった。「われ」と語る少年の視界に寄り添った文語の文章が、昼の暖かさから夕暮れの心細さへと、風景の表情を変えていく。まぶしいほどの花の色、滝の響き、頬の痒さや喉の渇きが、目に映るものへの不安と結びつく。姉に会いたい気持ちと、言いつけを破ったことを知られたくない意地も、少年の行動を左右する。美しい景色に惹かれる心と恐れが分かちがたく重なり、身近な野道や社が、子供の感覚を通して見知らぬ場所へと変わっていく幻想譚である。
あらすじ
少年・千里は、一人で行ってはいけないという姉の言いつけを破り、躑躅の紅に埋め尽くされた丘へと忍び出る。美しい毒虫・斑猫を追ううちに道に迷い、日が暮れて心細さに泣き叫ぶ。やがて隠れ遊びをする貧しい村の子らに加わった千里の前に、丈高く色白の美しい女が現れて彼を導き、そのまま大沼のほとりで気を失う。目を覚ますと、千里は山中の家で気高く美しい女性に介抱されていた。亡き母を思わせるその人は、九ツ谺と呼ばれる里で彼に乳房を含ませ、夢幻のような時を与える。老爺の背に負われて家へ帰されるが、村の者は「魔にさらわれた」「気が違った」と千里を疎み、姉や叔父までもが彼を縛めて座敷牢に閉じ込める。ついに寺へ運ばれ加持祈祷を受けるさなか、一夜の激しい暴風雨が村を襲い、姉に抱かれて念じられた千里はようやく正気を取り戻す。その嵐で九ツ谺の谷は一夜にして深い淵と化していた。歳月は流れ、姉は関屋少将の夫人となり、青年となった千里は海軍の少尉候補生として、あの美しい人の眠るような淵の面をひとり静かに見つめるのだった。
登場人物
- 千里(ちさと) 物語の主人公の少年。躑躅の丘で道に迷い、山中の女性に救われる。青年となった終幕では海軍の少尉候補生
- 姉上 早くに母を亡くした千里を優しく育てる姉。のちに関屋少将の夫人となる
- うつくしき人 九ツ谺の山家に住む気高く美しい女性。亡き母を思わせる姿で千里を介抱する
- 老爺(じいや) うつくしき人に仕え、千里を背負って家まで送り届ける老人
- 奈四郎 千里の家の後見をする屈強な叔父。魔に憑かれたとして千里を縛める
冒頭部(原文より)
日は午なり。あらら木のたらたら坂に樹の蔭もなし。寺の門、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を挟みて町の入口にはあたれど、のぼるに従いて、ただ畑ばかりとなれり。番小屋めきたるもの小だかき処に見ゆ。谷には菜の花残りたり。路の右左、躑躅の花の紅なるが、見渡す方、見返る方、いまを盛なりき。ありくにつれて汗少しいでぬ。空よく晴れて一点の雲もなく、風あたたかに野面を吹けり。一人にては行くことなかれと、優しき姉上のいいたりしを、肯かで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。
「竜潭譚」泉鏡花(青空文庫)
末尾部(原文より)
里の者、町の人皆挙りて見にゆく。日を経てわれも姉上とともに来り見き。その日一天うららかに空の色も水の色も青く澄みて、軟風おもむろに小波わたる淵の上には、塵一葉の浮べるあらで、白き鳥の翼広きがゆたかに藍碧なる水面を横ぎりて舞えり。あたかも今の関屋少将の夫人姉上十七の時なれば、年つもりて、嫩なりし常磐木もハヤ丈のびつ。草生い、苔むして、いにしえよりかかりけむと思い紛うばかりなり。あわれ礫を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたずらを叱り留めつ。年若く面清き海軍の少尉候補生は、薄暮暗碧を湛えたる淵に臨みて粛然とせり。
「竜潭譚」泉鏡花(青空文庫)
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