死者の書(折口信夫)のあらすじ・登場人物
二上山の闇に目覚める記憶
- 歴史
- 幻想
- 文字数
- 62,360字
- 読了目安
- 約2時間5分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 奈良県
この作品について
1939年(昭和14年)1月から3月まで『日本評論』に連載され、その後の改訂を経て1943年に単行本となった折口信夫の小説。奈良時代の大和を舞台に、二上山の闇のなかで「彼の人」の眠りが覚めてゆく場面から始まる。水の滴る音、冷たい岩、こわばった身体の感覚に続いて、一人の女性の名と過ぎた日の記憶が浮かび上がる。古代の人々の信仰や思いを、歴史上の出来事の説明よりも、声や感覚の生々しさから描こうとする文章が特徴だ。中将姫にまつわる当麻寺の伝説などを背景に、古い土地の記憶と仏教の世界が重なる。語られる時代や人物の視点が移る構成も、過去をひと筋にたどる歴史小説とは異なる読み心地を生む。国文学・民俗学を研究した作者が、学問上の関心を物語へと広げた作品で、連載後も自ら加筆や組み替えを重ねている。
あらすじ
奈良の都に近い二上山。その頂の墓のなかで、「彼の人」――謀反の疑いをかけられ、磐余の池のほとりで非業の死を遂げた皇子の魂が、凍りつくような闇のなかで、ゆるやかに長い眠りから覚めてゆく。よみがえった意識のうちに一途に灯りつづけるのは、生前ただ一度だけ見た女人・耳面刀自への、断ちがたい思慕である。「した した した」と滴る水の音を聞きながら、死者は闇のなかでその面影を呼びつづける。ときを同じくして、都では藤原南家の郎女が、称讃浄土経を千部写し取るほどの深い信心のうちに日を送っていた。ある春分の夕、二上山の男岳と女岳のあいだに沈む日の光のなかに、郎女は神々しい面影びとの姿をありありと見る。その俤に魂を奪われた郎女は、人にも告げず家を抜け出し、俤に導かれるまま山路をたどって、女人禁制の結界を犯し、当麻の万法蔵院の境内深くへと迷い入ってしまう。寺は騒然となり、郎女は罪を贖うための長い物忌みを課せられて、山陰の庵に籠められる。そこへ現れた当麻の語部の老女が、藤原の遠い祖先の物語や、この地に伝わる古い信仰を語り聞かせる。やがて郎女は、闇のなかに裸形のまま現れる「彼の人」の魂の幻を見るようになる。その寒々しい死者の姿を覆い包もうとして、郎女は蓮の茎から糸を績み、機に向かって、俤に見た尊い姿を一枚の曼陀羅へと織り描いてゆく。死者の恋慕と生者の祈りが二上山を舞台に交わり、鎮魂の営みへと昇華される。織り上げられた画面には、やがて数千の地涌の菩薩の姿が浮かび出て――。古代人の魂のありようと信仰の起源を、折口が詩人のことばで壮麗に描いた物語である。
冒頭部(原文より)
彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。 した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。膝が、肱が、徐ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。
「死者の書」折口信夫(青空文庫)
末尾部(原文より)
刀自・若人たちは、一刻一刻、時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞に、唯見呆けて居るばかりであった。 郎女が、筆をおいて、にこやかな笑いを、円く跪坐る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消える際に、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、ある訣はなかった。
「死者の書」折口信夫(青空文庫)
名文
彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。 した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。
物語の書き出し。二上山の墓の中で、大津皇子をモデルとする死者が長い眠りから目覚める場面を、「した した した」という水の音から描き起こす、忘れがたい冒頭。
原文を読む
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