その木戸を通って(山本周五郎)のあらすじ・登場人物
素性の知れぬ妻と笹の木戸
- 心理
- 幻想
- 文字数
- 22,457字
- 読了目安
- 約45分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
山本周五郎が1959年(昭和34年)、「オール讀物」に発表した短編。記憶をすっかり失った素性の知れぬ女を妻に迎えた若い藩士・平松正四郎の、静かで謎めいた愛の物語。どこの誰とも知れぬまま正四郎の家に落ち着いたふさは、よき妻となり子をもうけるが、その過去はわからない。喪失と待つことの哀しみを、うっすらと幻想の気配をまとわせて描いた晩年の名品である。
あらすじ
藩の勘定方に勤める若い平松正四郎は、中老の田原権右衛門から「江戸にあとくされはないか」と念を押されたうえで、国元へ帰され新たな役を命じられる。ある日、正四郎の屋敷に、身なりのよい若い女がふらりと迷いこむ。名も素性も、どこから来たのかも、女自身がまったく覚えていない。記憶を失ったこの女――ふさを、正四郎は放っておけずに家に置き、やがて妻として迎える。ふさはつつましく気立てのよい妻となり、二人のあいだには娘のゆかが生まれ、平穏であたたかな年月が流れる。だが、ふさの過去は依然として空白のままで、ときおり彼女はどこか遠くを見るような表情をみせるのだった。そんなある日、ふさは忽然と姿を消す。娘のゆかは、母が笹の小道のほうへいった、そこに木戸があって、と告げる。現実にはないはずのその木戸を通って、ふさは忘れていた過去の世界へ帰っていったのだ、と正四郎には思われた。それでもいつかは、いまの夫と子のことを思いだして帰ってくるにちがいない――正四郎は、そこにいない妻に向かって「帰るまで待っている」と静かに呼びかける。娘のわらべ唄が、明るくそのうしろに響いていた。
登場人物
- 平松正四郎 藩の勘定方に勤める若い武士。記憶のない女を妻に迎える本作の主人公
- ふさ 素性も過去も失った女。正四郎の妻となり娘をもうけるが、やがて木戸の彼方へ消える
- ゆか 正四郎とふさの娘
- 田原権右衛門 正四郎を国元へ呼びもどす藩の中老
- 吉塚助十郎 正四郎の朋輩の武士
冒頭部(原文より)
平松正四郎が事務をとっていると、老職部屋の若い付番が来て、平松さん田原さまがお呼びですと云った。正四郎は知らぬ顔で帳簿をしらべてい、若侍は側へ寄って同じことを繰り返した。 「おれのことか、なんだ」と正四郎が振向いた、「平松なんて云うから、――ああそうか」と彼は気がついて苦笑した、「平松はおれだったか、わかった、すぐまいりますと云ってくれ」
「その木戸を通って」山本周五郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
ゆかは母がそっちへいったという。ふさはその木戸を通っていったのだろう、彼は現実にはないその木戸と、そこに立っている妻の姿が見えるように思えた。しかしふさは帰って来る、と彼は思った。こんどは良人があり、ゆかという子供がある、それを思いださないということはあるまい。いつかは必ず思いだして帰るだろう、――この木戸を通って。 「みんながおまえを待っている、帰ってくれ、ふさ」彼はそこにいない妻に向って囁いた、「帰るまで待っているよ」 うしろのほうで、わらべ唄をうたうゆかの明るい声が聞えた。
「その木戸を通って」山本周五郎(青空文庫)
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