高瀬舟(森鴎外)のあらすじ・登場人物
夜の舟で人の境遇を聴く
- 歴史
- 心理
- 文字数
- 8,781字
- 読了目安
- 約18分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 京都府
この作品について
1916年(大正5年)1月、『中央公論』に発表された森鴎外の短編小説。江戸時代の随筆『翁草』に記された話を題材に、京都の高瀬川を下る護送の舟で、同心の羽田庄兵衛が罪人の喜助に耳を傾ける一夜を描く。遠島を言い渡された身でありながら、どこか穏やかな喜助の様子が、庄兵衛の関心を引く。舟という限られた空間での対話を中心に、役所の記録だけではうかがえない、一人の人間の暮らしやものの考え方へ近づいていく構成である。鴎外は別に著した『高瀬舟縁起』で、原話にひかれた理由の一つとして財産の観念を挙げ、人の欲には限りがないことを論じている。簡潔な語りの中で、人が満ち足りるとはどういうことか、他者の境遇をどのように理解するかという問いが重ねられる。春の夕べの桜や、夜の川の静かな描写も、舟上の会話を包む大切な要素となっている。
あらすじ
京都の罪人を大阪へ護送する高瀬舟には、罪人の身内が一人だけ同船を許される慣わしがあった。ある晩、弟殺しの罪で島流しとなる喜助という男を護送することになった同心・羽田庄兵衛は、罪人でありながらどこか晴れやかな喜助の様子を不審に思い、その仔細を尋ねる。喜助が語るには、重い病で苦しんでいた弟が、剃刀で自ら喉を突いたものの死にきれず、早く楽にしてくれと頼まれ、頼まれるままに剃刀を引き抜いてやったのだという。それが弟を苦しみから救うためだったと思うと、庄兵衛には喜助の行いが果たして罪なのかどうか判断がつかない。庄兵衛はお奉行様の判断に従おうと考えるが、なお腑に落ちない思いが残る。沈黙した二人を乗せ、舟は夜の川を下っていく。
登場人物
- 羽田庄兵衛 高瀬舟で喜助を護送する同心。喜助の話に安楽死の是非を思い悩む
- 喜助 弟殺しの罪で島流しとなる男。晴れやかな態度で庄兵衛を戸惑わせる
- 喜助の弟 重い病を苦にして自ら死を望み、喜助に手を貸してもらって死ぬ
冒頭部(原文より)
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。
「高瀬舟」森鴎外(青空文庫)
末尾部(原文より)
庄兵衛はその場の様子を目のあたり見るような思いをして聞いていたが、これがはたして弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという疑いが、話を半分聞いた時から起こって来て、聞いてしまっても、その疑いを解くことができなかった。弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだろうから、抜いてくれと言った。それを抜いてやって死なせたのだ、殺したのだとは言われる。しかしそのままにしておいても、どうせ死ななくてはならぬ弟であったらしい。それが早く死にたいと言ったのは、苦しさに耐えなかったからである。喜助はその苦を見ているに忍びなかった。苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑いが生じて、どうしても解けぬのである。庄兵衛の心の中には、いろいろに考えてみた末に、自分よりも上のものの判断に任すほかないという念、オオトリテエに従うほかないという念が生じた。庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらにふに落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。
「高瀬舟」森鴎外(青空文庫)
名文
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。
京都の運河をゆく小舟の説明から静かに起こす書き出し。罪とは何か、安楽死とは何かを問う短編の枠組みを据える。
殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑いが生じて、どうしても解けぬのである。
弟殺しの経緯を聞き終えた庄兵衛の述懐。安楽死をめぐる問いを、答えの出ないまま読者の手に渡す。
かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。
欲のない喜助の話を聞いた庄兵衛の感慨。際限なく欲を広げる人間の性と、足ることを知る喜助の姿を対比し、作品のもう一つの主題を示す。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。