天衣無縫(織田作之助)のあらすじ・登場人物
断れない夫と怒る妻
- 恋愛
- 風刺
- 文字数
- 12,975字
- 読了目安
- 約26分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 大阪府
この作品について
織田作之助が1942年(昭和17年)4月の「文芸」に発表した短編。大阪の二十四歳の娘・政子が、生まれて初めての縁談で見合いをした相手、帝大出の会社員・軽部清正との婚約から結婚までを、一人称の語りで打ち明ける。爺むさい眼鏡に獅子鼻、見合いには酒を飲んで遅れてくる――と、政子は「あの人」の頼りなさに腹を立てどおしで、その口調は言い訳や打ち消しを重ねながら、くるくると気分を変えていく。文楽座、法善寺の寄席、道頓堀のかき舟など大阪の町が舞台に織り込まれ、人に頼まれると決して断れない男の不思議な人柄が、怒る妻の言葉の向こうから浮かび上がってくる。
あらすじ
二十四になるまで縁談のなかった政子は、写真を見ただけでがっかりするような風采の上がらない男、帝大出の会社員・軽部清正と見合いをする。軽部は一時間も遅れ、しかも酒に酔って現れた。大学で何を専攻したかと訊けば「線香ですか、好きです」と答える始末で、政子は結婚するものかと決めるが、先方から何から何まで気に入ったと返事が来ると、飛びつくように承知してしまう。ところが後で、軽部が友人に、酔っていて相手の顔もわからなかったが、断れば相手を傷つけるから貰うことにした、と話していたと聞かされる。
婚約中も腹の立つことばかりだった。文楽に誘われて行けば千秋楽が過ぎて小屋は閉まっており、かき舟でご馳走になれば勘定が足りず、政子が払う羽目になる。友人によれば、軽部は高等学校の頃から、頼まれると金がなくても安請け合いして金策に走り回る底抜けのお人よしで、のちには逆に人の顔さえ見れば金を貸してくれと言うようになったという。式の直前には、心斎橋の雑踏で政子自身が二円を借りられてしまう。破約したいと訴えても、父は愉快がり、母は女房の尻に敷かれる人は出世するものだと言う。
結婚後、政子は軽部に二度と人に金を貸さないと誓わせ、財布まで管理するが、ある日見知らぬ男が金を受け取りに訪ねてくる。軽部は上着とチョッキを質に入れてその金を工面していた。政子は激しく折檻するが、軽部はその最中にすやすやと眠ってしまい、その寝顔に政子はあてどない嫉妬を覚える。身ごもった政子は夫に偉くなってほしいと励ますが、軽部はタイムレコードを押し忘れて昇給にも取り残される。きつく言うと、軽部は「そんなことまでいちいち気をつけて偉くならんといかんのか」と怖い顔で睨み、すぐ横になって寝入ってしまう。
登場人物
- 政子 大阪の二十四歳の娘。器量に自信がなく、初めての縁談で軽部と結婚する語り手
- 軽部清正 帝大出の会社員。風采が上がらず、頼まれると断れない底抜けのお人よし
- 軽部の友人 お饒舌で屁理屈屋の友人。政子に軽部の学生時代の話を聞かせる
- 政子の母 軽部を素直で初心な人と見て、結婚をすすめる
冒頭部(原文より)
みんなは私が鼻の上に汗をためて、息を弾ませて、小鳥みたいにちょんちょんとして、つまりいそいそとして、見合いに出掛けたといって嗤ったけれど、そんなことはない。いそいそなんぞ私はしやしなかった。といって、そんな時私たちの年頃の娘がわざとらしく口にする「いやでいやでたまらなかった」――それは嘘だ。恥かしいことだけど、どういう訳かその年になるまでついぞ縁談がなかったのだもの、まるでおろおろ小躍りしているはたの人たちほどではなかったにしても、矢張り二十四の年並みに少しは灯のつく想いに心が温まったのは事実だ。けれど、いそいそだなんて、そんなことはなかった。なんという事を言う人達だろう。
「天衣無縫」織田作之助(青空文庫)
末尾部(原文より)
私は生れて来る子供のためにもあの人に偉くなって貰わねばと思い、以前よりまして声をはげまして、あの人にそう言うようになったが、あの人はちっとも偉くならない。女房の尻に敷かれる人はかえって出世するものだ、と母が言った言葉は出鱈目だろうか。それともあの人はちっとも私の尻に敷かれていないのだろうか。ともかくあの人は、会社の年に二回の恒例昇給にも取り残されることがしばしばなのだ。あの人の社には帝大出の人はほかに沢山いるわけではなし、また、あの人はひと一倍働き者で、遅刻も早引も欠席もしないで、いいえ、私がさせないで、勤勉につとめているのに、賞与までひとより少ないとはどうしたことであろうと、私は不思議でならなかったが、じつはあの人は出退のタイムレコードを押すことをいつも忘れているので、庶務の方ではあの人がいつも無届欠勤をしているようにとっていたのだ、とわかった。一事が万事、なるほど昇給に取り残されるのも無理はないと悲しくわかり、その旨あの人にきつく言うと、あの人は、そんなことまでいちいち気をつけて偉くならんといかんのか、といつにない怖い顔をして私をにらみつけた。そして、昼間はひとの分まで仕事を引き受けて、よほど疲れるのだろうか、すぐ横になって、寝入ってしまうのでした。
「天衣無縫」織田作之助(青空文庫)
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