藤十郎の恋(菊池寛)のあらすじ・登場人物
名優が直面する未知の恋の役
- 歴史
- 恋愛
- 文字数
- 13,298字
- 読了目安
- 約27分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 京都府
この作品について
1919年4月、「大阪毎日新聞」に発表された菊池寛の短編小説。同名の戯曲もあるが、ここに収めるのは小説版である。元禄の京では、坂田藤十郎と江戸から来た中村七三郎の芸比べが人々の話題となっている。喝采を受け続けてきた藤十郎も、同じ得意役を繰り返す自分の芸に、行き詰まりを感じ始めていた。近松門左衛門に新しい狂言を求めた彼を待つのは、まだ自ら経験したことのない、命がけの恋を演じる難しさである。華やかな春の町や芝居の人気を描く場面から、一人の役者の不安へと焦点が絞られてゆく。競争相手を恐れるだけではなく、その芸の新しさを認める藤十郎の目が、物語に緊張を与える。舞台で本当らしく見せるとはどういうことか、経験と表現はどこまで結びつくのか。名優の思案を追ううちに、芸を求める心と他者の暮らしとの境目が気になってくる作品である。
あらすじ
元禄の京。三ヶ津の総芸頭と讃えられた都万太夫座の坂田藤十郎は、江戸下りの中村七三郎の人気に圧され、起死回生を近松門左衛門の新狂言に賭ける。だがそれは人妻との密通という、藤十郎がまだ一度も演じたことのない役であった。稽古に行き詰まった藤十郎は、二十年来ひそかに自分を慕い続けてきた宗清の女房・お梶に、偽りの恋を仕掛ける。夜更けの座敷、藤十郎の言葉にお梶は貞淑の心を破られ、震える手で灯を消す。だが藤十郎はその闇の中で、密夫の恐怖と歓喜——求めていた芸の実感を掴むと、そのまま姿を消した。新狂言の初日、藤十郎の演じる密通の場は真に迫り、都中の評判をさらう。だが弥生半ばのある朝、万太夫座の楽屋の梁に、お梶が縊れて死んでいるのが見つかる。報せを聞いた藤十郎は雷に打たれたように色を変えたが、「藤十郎の芸の為には、一人や二人の女の命は」と心の中で繰り返す。お梶の死後、藤十郎の芸は、罪の怖ろしさを肝に銘じた者の芸として、いよいよ冴えていった。
登場人物
- 坂田藤十郎 芸の完成のために偽りの恋を仕掛ける元禄歌舞伎の名優
- お梶 宗清の女房。藤十郎への長年の想いを利用され、命を絶つ
- 近松門左衛門 藤十郎のために新狂言を書き下ろす狂言作者
冒頭部(原文より)
元禄と云う年号が、何時の間にか十余りを重ねたある年の二月の末である。都では、春の匂いが凡ての物を包んでいた。ついこの間までは、頂上の処だけは、斑に消え残っていた叡山の雪が、春の柔い光の下に解けてしまって、跡には薄紫を帯びた黄色の山肌が、くっきりと大空に浮んでいる。
「藤十郎の恋」菊池寛(青空文庫)
末尾部(原文より)
お梶が、死んで以来、藤十郎の茂右衛門の芸は、愈々冴えて行った。彼の瞳は、人妻を奪う罪深い男の苦悩を、ありありと刻んでいた。彼がおさんと暗闇で手を引き合う時、密夫の恐怖と不安と、罪の怖しさとが、身体一杯に溢れていた。 其処には、藤十郎が茂右衛門か、茂右衛門が藤十郎か、何の差別もないようであった。恐らく藤十郎自身、人の女房に云い寄る恐ろしさを、肝に銘じていた為であろう。
「藤十郎の恋」菊池寛(青空文庫)
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