犬を連れた奥さん(チェーホフ)のあらすじ・登場人物
保養地ヤールタの出会い
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- 翻訳
- 文字数
- 19,389字
- 読了目安
- 約39分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
チェーホフが1899年12月に雑誌「ロシア思想」に発表した短編を、神西清が訳したもの。1940年(昭和15年)の岩波文庫『可愛い女・犬を連れた奥さん』に収められた。黒海に臨む保養地ヤールタで、妻子あるモスクワの銀行員グーロフが、白いスピッツを連れて海岸通りを散歩する若い人妻アンナ・セルゲーヴナと言葉を交わす。四つの章で季節と土地を移しながら、二人の関係を静かに描いていく。旅先の倦怠や海辺の光景と人物の心の動きを重ねる簡潔な描写が特徴で、ナボコフが短編小説の傑作の一つに挙げ、ゴーリキーも称賛した。
あらすじ
モスクワの銀行に勤めるグーロフは、妻を煙たがって浮気を重ねてきた四十前の男。保養地ヤールタで、白いスピッツを連れた若い人妻アンナ・セルゲーヴナと知り合い、ほどなく関係を結ぶ。彼女は自分を卑しい女だと泣いて悔やむが、二人は海岸通りやオレアンダへ出かけて日々を過ごす。夫から帰宅を求める手紙が届き、彼女は「これっきりもうお別れに」と言って汽車で去る。モスクワに戻ったグーロフは、ひと月もすれば忘れると高をくくっていたが、面影はかえって強まり、俗っぽい毎日に耐えられなくなる。十二月、彼は口実を作ってアンナの住むS市へ行き、劇場で夫と並ぶ彼女を見つけて声をかける。うろたえたアンナは、自分がモスクワへ会いに行くと約束する。以来、彼女は医者に診てもらうと偽って二、三か月に一度モスクワへ出てきて、二人は人目を忍んで会うようになる。白髪のまじりはじめたグーロフは、生まれて初めて本当の恋をしたことを悟る。二人はこの境遇から抜け出す方法を語り合い、解決はもう少しで見つかりそうに思えながら、いちばん困難な道がまだ始まったばかりであることを知るのだった。
登場人物
- グーロフ(ドミートリイ・ドミートリチ) モスクワの銀行に勤める四十前の男。妻子がある
- アンナ・セルゲーヴナ S市から保養に来た若い人妻。白いスピッツを連れている
- グーロフの妻 知的な婦人を自任する
- フォン・ヂーデリッツ アンナの夫。S市で勤めている
冒頭部(原文より)
海岸通りに新しい顔が現われたという噂であった――犬を連れた奥さんが。ドミートリイ・ドミートリチ・グーロフは、ヤールタに来てからもう二週間になり、この土地にも慣れたので、やはりそろそろ新しい顔に興味を持ちだした。ヴェルネ喫茶店に坐っていると、海岸通りを若い奥さんの通って行くのが見えた。小柄な薄色髪の婦人で、ベレ帽をかぶっている。あとからスピッツ種の白い小犬が駈けて行った。 それからも彼は、市立公園や辻の広場で、日に幾度となくその人に出逢った。彼女は一人っきりで、いつ見ても同じベレをかぶり、白いスピッツ犬を連れて散歩していた。誰ひとり彼女の身許を知った人はなく、ただ簡単に『犬を連れた奥さん』と呼んでいた。 『あの女が良人も知合いも連れずに来てるのなら』とグーロフは胸算用をするのだった、『ひとつ付き合ってみるのも悪くはないな』
「犬を連れた奥さん」チェーホフ(青空文庫)
末尾部(原文より)
「もうおやめ、いい子だから」と彼は言った。「それだけ泣いたら、もうたくさん。……今度は話をしようじゃないか、何かひと工夫してみようじゃないか」 それから二人は長いこと相談をしていた。どうしたら一体、人目を忍んだり、人に嘘をついたり、別々の町に住んだり、久しく会わずにいなければならないような境涯から、抜け出すことができるだろうかということを語り合った。どうしたらこの堪えきれぬ枷からのがれることが出来るだろうか? 「どうしたら? どうしたら?」と彼は、頭をかかえて訊くのだった。「どうしたら?」 すると、もう少しの辛抱で解決の途がみつかる、そしてその時こそ新しい、素晴らしい生活が始まる、とそんな気がするのだった。そして二人とも、旅の終りまではまだまだはるかに遠いこと、いちばん複雑な困難な途がまだやっと始まったばかりなことを、はっきりと覚るのだった。
「犬を連れた奥さん」チェーホフ(青空文庫)
名文
海岸通りに新しい顔が現われたという噂であった――犬を連れた奥さんが。
チェーホフ『犬を連れた奥さん』の書き出し。保養地ヤールタの退屈な噂話から、平凡な男の生涯を変える恋がさりげなく始まる。
はるか下のそのざわめきは、まだここにヤールタもオレアンダも無かった昔にも鳴り、今も鳴り、そしてわれわれの亡い後にも、やはり同じく無関心な鈍いざわめきを続けるのであろう。
オレアンダの丘で、グーロフとアンナが黙って海を見おろす場面。人の生死に無関心な海の響きに、永遠の安らぎを見る名高い叙景。
そして二人とも、旅の終りまではまだまだはるかに遠いこと、いちばん複雑な困難な途がまだやっと始まったばかりなことを、はっきりと覚るのだった。
作品の結びの一文。答えを示さずに終わる、チェーホフの「開かれた結末」の代表例としてよく引かれる。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。