江戸川乱歩の名文
江戸川乱歩の作品から、よく知られた一節を集めました。
17件
二銭銅貨
「あの泥坊が羨しい」二人の間にこんな言葉が交される程、其頃は窮迫していた。
日本の本格探偵小説の出発点とされる作品の書き出し。貧しさの嘆きから始まった会話が、暗号をめぐる知恵くらべへと転がっていく。
D坂の殺人事件
それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中程にある、白梅軒という、行きつけのカフェで、冷しコーヒーを啜っていた。
名探偵・明智小五郎が初めて姿を見せる作品の冒頭。蒸し暑い夜のカフェから、日本の探偵小説を代表する探偵と語り手の物語が始まる。
心理試験
蕗屋清一郎が、何故これから記す様な恐ろしい悪事を思立ったか、その動機については詳しいことは分らぬ。又仮令分ったとしてもこのお話には大して関係がないのだ。
物語の書き出し。犯人の動機を「分らぬ」と切り捨て、犯行の手順と心理試験をめぐる攻防に焦点を絞る語り口が、犯人の側から描く倒叙形式の探偵小説の始まりを告げる。
赤い部屋
異常な興奮を求めて集った、七人のしかつめらしい男が(私もその中の一人だった)態々其為にしつらえた「赤い部屋」の、緋色の天鵞絨で張った深い肘掛椅子に凭れ込んで、今晩の話手が何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待構えていた。
物語の書き出し。退屈をまぎらす刺激を求める七人の男が、緋色に塗り込められた部屋で怪異な物語に耳を傾ける。舞台装置の妖しさが一文で立ち上がる。
屋根裏の散歩者
多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、一向この世が面白くないのでした。
物語の書き出し。何をしても世の中が面白くない郷田三郎の退屈は、やがて屋根裏の散歩と完全犯罪へと向かう。乱歩が好んで描いた、倦怠から生まれる異常心理の典型。
人間椅子
椅子の中に人間が隠れていようなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことを、誰が想像致しましょう。
椅子の内部に住みついたと告白する手紙の一節。日常の家具に潜む異常を描き、乱歩の代名詞となった短編。
木馬は廻る
ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、廻転木馬は廻るのだ。
作中でくり返される一文。木馬館のラッパ吹き格二郎の哀歓を、回り続ける木馬の音が包み込む。
鏡地獄
考えてみますと、彼はそんな時分から、物の姿の映る物、たとえばガラスとか、レンズとか、鏡とかいうものに、不思議な嗜好を持っていたようです。
江戸川乱歩『鏡地獄』で、語り手が友人の「彼」の少年時代を回想する一節。鏡やレンズへの偏愛という、物語を貫く嗜好が示される。
パノラマ島綺譚
同じM県に住んでいる人でも、多くは気づかないでいるかも知れません。
江戸川乱歩『パノラマ島綺譚』の書き出し。M県の海に浮かぶ無人島に、やがて一人の男が築く奇想の世界が語られていく。
陰獣
そのお人好しで善人な私が、偶然にもこの事件に関係したというのが、抑も事の間違いであった。
江戸川乱歩『陰獣』の冒頭近く。探偵小説家の「私」が、自分は善人だと語りながら事件への関わりを悔やむ。不穏な語り出しが読者を引き込む。
孤島の鬼
私はまだ三十にもならぬに、濃い髪の毛が、一本も残らず真白になっている。この様な不思議な人間が外にあろうか。
江戸川乱歩『孤島の鬼』の「はしがき」の書き出し。三十前にして真っ白になった髪という謎が、これから語られる体験の恐ろしさを予告する。
押絵と旅する男
この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない。
語り出しから夢と狂気の境を宙づりにする導入。蜃気楼の帰りの汽車で出会った男と、押絵の中に生きる恋人の物語が始まる。
人間豹
しかし、もし彼がもっと別のカフェを選ぶか、そこのウエートレスと恋をするほども足しげく通よわなかったなら、あのような身の毛もよだつ恐ろしい運命にもてあそばれなくてすんだに違いない。彼がこの物語の主人公、怪物人間豹を知ったのは、実にカフェ・アフロディテにおいてであったのだから。
冒頭近くの一節。カフェ通いの青年に待ち受ける運命を先に匂わせ、怪物「人間豹」の登場へ読者を引き込む乱歩らしい語り。
ああ、あれが人間の舌であろうか。まっ赤な肉の表面に、針を植えたような一面のささくれ。それが、舌を動かすたびに、風に吹かれた草むらの感じで、サーッと波打って逆立つのだ。決して人類の舌ではない。猫属の舌だ。
第一章「猫属の舌」で、神谷が謎の男の舌を目撃する場面。獣めいた細部の描写で、人間豹の不気味さを印象づける。
黒蜥蜴
この国でも一夜に数千羽の七面鳥がしめられるという、あるクリスマス・イヴの出来事だ。
怪盗「黒トカゲ」と名探偵明智小五郎の対決を描く江戸川乱歩の長編の書き出し。華やかな夜の街から、物語が始まる。
怪人二十面相
そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました。
少年探偵団シリーズの幕開け。うわさ話の広がりだけで怪盗の巨大さを描き、明智小五郎と小林少年の登場を待たせる。
少年探偵団
そいつは全身、墨を塗ったような、おそろしくまっ黒なやつだということでした。
少年探偵団の冒頭、東京中に噂が広がる「黒い魔物」の正体不明ぶりを語る。子どもたちの冒険と怪人との対決の幕開け。