芥川龍之介の名文

芥川龍之介の作品から、よく知られた一節を集めました。

77件

羅生門

ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

荒廃した平安京の一隅に、時と人物を一息に据える簡潔な導入。生きるための悪へと踏み出す下人の物語が、ここから静かに動き出す。

下人の行方は、誰も知らない。

全編を締めくくる最後の一行。悪へ踏み出した下人を闇の中へ消し、その後を語らずに読者へ委ねて突き放す。

「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

老婆の言い分を聞いた下人が、盗人になる決意を固めて言い放つ言葉。生きるための悪を老婆自身の論理で正当化し、物語は闇へと向かう。

鼻

禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。

長い鼻を淡々と説明する書き出し。他人の不幸が直ると物足りなくなる「傍観者の利己主義」を描き、漱石に激賞された出世作。

こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。

長い鼻がようやく短くなり、鏡を見て安堵する場面。しかし嘲笑は止まず、内供の心はふたたび揺らいでいく。

人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。

鼻が短くなった内供を、周囲がかえって笑う場面に続く語り手の考察。同情の裏にひそむ他人の不幸への執着を見抜き、直後の「傍観者の利己主義」へつながる。

酒虫

近年にない暑さである。

冒頭の一文。照りつける夏の暑さの描写から、大酒飲みの劉が腹の酒虫を取り除く奇談が始まる。

劉の一生から酒を除けば、後には、何も残らない。して見ると、劉は即酒虫、酒虫は即劉である。

作者が並べてみせる三つの答えのうち、第三の答えの一節。中国の奇談を、人とその欲との関係を問う寓話に仕立て直している。

芋粥

しかし、五位が夢想してゐた、「芋粥に飽かむ」事は、存外容易に事実となつて現れた。

芋粥を飽きるほど食べたいという五位のささやかな夢が、思わぬ形で叶うことを告げる一文。夢は叶った瞬間に色あせるという、皮肉な結末へ導く。

しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。

大量の芋粥を前に食欲を失った五位が、夢を抱いていた頃の自分を懐かしむ結末近くの一節。叶わぬ望みを持ち続けることこそ幸福だったと気づかせる。

煙管

加州石川郡金沢城の城主、前田斉広は、参覲中、江戸城の本丸へ登城する毎に、必ず愛用の煙管を持って行った。

冒頭の一文。加賀百万石の殿様が自慢にした金無垢の煙管が、江戸城の坊主たちとのやりとりを生む発端となる。

西郷隆盛

だから、僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。

汽車で本間さんと語り合う老紳士の言葉。史料の確かさを疑い、「美しい歴史」を求めると言い切る、作品の歴史観の核心。

袈裟と盛遠

「もう月の出だな。いつもは月が出るのを待ちかねる己も、今日ばかりは明くなるのがそら恐しい。

上の巻、盛遠の独白の書き出し。約束の夜を迎えた男の不安を、月の出を恐れる心で示す。二人の独白を並べる構成が読みどころ。

夜、袈裟が帳台の外で、燈台の光に背きながら、袖を噛んで物思いに耽っている。

下の巻の書き出し。上の巻の「盛遠が築土の外で」と対になる一文で、同じ夜を女の側から語り直す。

地獄変

堀川の大殿様のやうな方は、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。

大殿に仕えた者の語りとして進む物語の書き出し。絵師良秀が娘の焼死を凝視して屏風を仕上げる、芸術と業の物語が始まる。

さつきまで地獄の責苦に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇んでゐるではございませんか。

燃え上がる牛車の中で娘が焼かれるのを前に、絵師良秀が見せる表情。親の情を超えて芸術に憑かれた者の姿を、語り手が恐れとともに伝えるクライマックス。

蜘蛛の糸

ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。

極楽の御釈迦様の朝を描く、童話のようにやさしい書き出し。地獄に垂らされた一筋の糸をめぐる寓話が始まる。

こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。

糸を上ってくる罪人たちへ陀多が叫ぶ場面。この一言で糸はぷつりと切れ、彼は再び地獄へ落ちていく。

しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

糸が切れてカンダタが地獄へ落ちたあとの結び。人間の悲劇に少しも頓着しない極楽の静けさを描いて、冒頭の蓮池の場面へ円を描くように戻っていく。

奉教人の死

なべて人の世の尊さは、何ものにも換へ難い、刹那の感動に極るものぢや。

「ろおれんぞ」が実は女であったと明かされたあと、語り手が添える評言。キリシタン版の文体をまねた擬古文で、一瞬の感動にこそ人生の価値があるという芥川の芸術観を響かせる。

毛利先生

元よりそう云う苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾とあの山高帽とに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ましく、不退転の訳読を続けて行った。

中学時代に笑いものにした英語教師、毛利先生を、大人になった「自分」が思い返す一節。嘲笑が敬意へと変わる、作品の核心。

「名に代る詞だから、代名詞と云う。ね。代名詞。よろしいかね……」

結びに置かれた毛利先生の言葉。カッフェの給仕たちに今も熱心に英語を教える姿が、この一言に込められている。

きりしとほろ上人伝

遠い昔のことでおぢやる。「しりあ」の国の山奥に、「れぷろぼす」と申す山男がおぢやつた。

本編の書き出し。切支丹版の語り口をまねた「おぢやる」調で、聖人伝を昔話のように語りはじめる。

「如何なこと、それがしは聞えた大飯食ひでおぢやる。中々断食などはなるまじい。」

信心の修行をすすめる隠者の翁に、大男れぷろぼすが答える言葉。素朴で正直な山男の人柄が、とぼけた可笑しみとともに伝わる。

蜜柑

私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

汽車の窓から弟たちへ蜜柑を投げる小娘を見た直後の結び。灰色だった風景が一瞬だけ色を帯びる、芥川の小品でもっとも澄んだ幕切れ。

暮色を帯びた町はずれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。

奉公先へ向かう小娘が、見送りに来た弟たちへ汽車の窓から蜜柑を投げる場面。暮れ方の踏切に散る鮮やかな色が、倦み疲れた「私」の心を一瞬で塗り替える。

竜

その鼻蔵の、鼻蔵人の、大鼻の蔵人得業の恵印法師が、ある夜の事、弟子もつれずにただ一人そっと猿沢の池のほとりへ参りまして、あの采女柳の前の堤へ、『三月三日この池より竜昇らんずるなり』と筆太に書いた建札を、高々と一本打ちました。

陶器造の翁が語る話の発端。鼻を笑われる恵印が仕返しのつもりで立てた建札が、奈良じゅうを巻き込む騒ぎへ広がっていく。

尾生の信

尾生は橋の下に佇んで、さっきから女の来るのを待っている。

冒頭の一文。橋の下で恋人を待ち続ける尾生の姿から始まり、以後「が、女は未だに来ない」の繰り返しが緊張を高めていく。

だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、何か来るべき不可思議なものばかりを待っている。ちょうどあの尾生が薄暮の橋の下で、永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。

結びの一節。古代中国の故事「尾生の信」を語り手自身の魂に重ね、来ないものを待ち続ける近代人の心へと転じる。

葱

おれは締切日を明日に控えた今夜、一気呵成にこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。

冒頭の一節。締切に追われる作者自身が顔を出す語り口で、カッフェの女給仕お君さんの物語へ読者を引き込む。

薔薇と指環と夜鶯と三越の旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまった。

恋人とのデートの途中、八百屋の「一束四銭」の葱の札を見たお君さんの胸の内。恋と芸術の夢から実生活へ引き戻される瞬間を鮮やかに描く。

舞踏会

私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生のやうな花火の事を。

鹿鳴館の舞踏会で明子と踊ったフランスの海軍将校が、夜空の花火を見上げて口にする言葉。華やかな夜のさなかに、生のはかなさを花火に重ねた一言として名高い。

杜子春

或春の日暮です。  唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。

昔話の語り口で始まる童話の書き出し。仙人の術で栄華も地獄も見た杜子春が、最後に何を選び取るのかへ静かに向かっていく。

杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん」と一声を叫びました。

地獄で畜生に落とされた母を目にし、ついに沈黙の誓いを破る場面。仙人になる望みと引き換えに人の情を選ぶ、物語の核心。

「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」

仙人になる望みを捨てた杜子春が、鉄冠子に語る結末近くの言葉。富も仙術も通り過ぎた末に選んだ、人としての素朴な生き方が示される。

藪の中

さようでございます。あの死骸を見つけたのは、わたしに違いございません。

検非違使の尋問に答える木樵りの言葉から始まる。証言が食い違ったまま真相に届かない構成は、「藪の中」という言い回しを日本語に残した。

誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢れて来る。おれはそれぎり永久に、中有の闇へ沈んでしまった。

巫女の口を借りて語られる死霊(金沢武弘)の物語の結び。胸の小刀を抜いたのが誰なのかは明かされないまま証言は闇に沈み、真相は読者に委ねられる。

将軍

「莫迦野郎! おれたちは死ぬのが役目じゃないか?」

旅順攻撃の白襷隊として出撃する兵士たちの会話の一節。名誉と死の間で揺れる一兵卒たちの本音が、戦場の空気を伝える。

「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」

終章で青年が父の少将に語る言葉。英雄とされたN将軍の「至誠」を次の世代がもう理解できないという、時代の断絶を示す一節。

トロッコ

小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。

少年の年齢を添えて時と場所を据える書き出し。トロッコで遠くまで行った帰り道の心細さが、生涯忘れえぬ記憶として残る。

塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。

作品の結び。大人になった良平が、少年の日にトロッコで遠くまで来てしまった心細い帰り道を思い出す。人生の不安をその路に重ねて閉じる。

お富の貞操

下谷町二丁目の小間物店、古河屋政兵衛の立ち退いた跡には、台所の隅の蚫貝の前に大きい牡の三毛猫が一匹静かに香箱をつくつてゐた。

冒頭の一節。彰義隊の戦いを翌日に控え、町家の人々が立ち退いた上野界隈。空き家に残された三毛猫が、この物語の鍵になる。

「猫ぢや悪いのかい?――三毛、三毛、さあ、下りて御出で。」

立ち退いた家へ忘れ物を取りに戻ったお富の言葉。命の危うい町へ猫一匹のために戻る、気丈で一途な人柄が表れる。

侏儒の言葉

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。

箴言集の一節。人生の軽さと重さのどちらにも与しない身構えを、マッチ一箱の比喩で言い当てた、芥川晩年の醒めた警句。

人生は地獄よりも地獄的である。

「地獄」と題された断章の書き出し。地獄の苦しみには一定の法則があるが、人生の苦しみはそれほど単純ではないと続き、人生の不可解さを皮肉る。

自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。

「自由」と題された断章の一つ。自由を高山の薄い空気にたとえ、それを求めながら耐えきれない人間の弱さを鋭く突く警句。

輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。

「輿論」と題された断章。世論が人を裁くとき、それは私的な制裁であり娯楽でもあると言い切る。今日のネット上の炎上にも通じる鋭さで引かれ続けている。

天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。

「天才」と題された断章。天才と凡人の差はわずか一歩だが、同時代の人はその隔たりの大きさを、後世の人はその近さを見誤るという逆説。

我我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。

「多忙」と題された断章。恋愛を成就させるには何より暇が必要で、古来の恋人たちは皆閑人だったと続く、軽妙な逆説。

あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。

「神」と題された一章。全能であるはずの神にできないことを逆手に取り、神への同情という意表を突く形で、生と死をめぐる芥川の屈折した思いをのぞかせる警句。

道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。

「修身」の章の一節。道徳を便利な約束事として突き放し、その恩恵と損害とを天秤にかけて、道徳に寄りかかる者の良心の鈍りを鋭く突く。

武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。

恐れるべきは道具そのものではなく、それを扱う人の技量と言葉だとする警句。正義の名のもとに人を動かす弁舌の危うさを言い当てている。

わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。

「わたし」と題された自画像めいた一章。良心の代わりに神経だけがあるという言い方に、過敏な感受性を抱えて生きた芥川の自己認識がにじむ。

人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角一部を成している。

「人生は一箱のマッチに似ている」に続けて置かれた、人生をめぐる警句の一つ。欠けた頁の多い本にたとえて、不完全なまま一つのまとまりを成す人の一生を言い表す。

天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

天才を讃える通念を裏返し、世間を騒がせる力もまた才能の一部だと言い切る警句。醜聞と才能とが隣り合う文壇の空気を皮肉に映す。

他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。

遺稿として発表された後半部の「弁護」の一章。他人の弁護を職業とする者でさえ自分のこととなるとうまくいかない、という皮肉で人間の弱さを突く。

人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。

ニーチェの著書名『人間的な、あまりに人間的な』をもじった警句。人間らしさとして肯定されがちなものの多くが、実は動物の本能に根ざしていると突き放す。

恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。

「恋愛」の章の一節。恋愛を性欲に還元する冷ややかな定義に見えて、詩的表現こそが恋愛を恋愛たらしめるとする、芥川らしい両面の見方が示される。

僻見

僕の詩歌に対する眼は誰のお世話になつたのでもない。斎藤茂吉にあけて貰つたのである。

「斎藤茂吉」の章の一節。歌集『赤光』を読んで詩歌に目を開かれたと語る、茂吉への敬意を率直に示した言葉。

桃太郎

人間の知らない山の奥に雲霧を破った桃の木は今日もなお昔のように、累々と無数の実をつけている。勿論桃太郎を孕んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。

昔話を皮肉たっぷりに書き換えた短編の結び。鬼ヶ島を侵略する桃太郎を描いたあと、物語は再び桃の木へ戻り、まだ生まれぬ「未来の天才」たちを予告して終わる。

大導寺信輔の半生――或精神的風景画――

大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だった。彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。美しい家も一つもなかった。

第一章「本所」の書き出し。信輔の少年時代を、美しいもののない下町の記憶から語りはじめる。

信輔は全然母の乳を吸ったことのない少年だった。

第二章「牛乳」の冒頭。母の乳を知らずに育ったことを一生の秘密として恥じる、信輔の内面の出発点となる一文。

馬の脚

この話の主人公は忍野半三郎と言う男である。生憎大した男ではない。

冒頭の一文。北京の会社員という平凡な主人公を淡々と紹介し、続く奇想天外な出来事との落差を際立たせる。

「じゃその馬の脚をつけよう。馬の脚でもないよりは好い。ちょっと脚だけ持って来給え。」

あの世の役所で、手違いを正すため半三郎に脚をつける場面。人間の脚がないからと馬の脚で間に合わせる、とぼけた可笑しみが効いている。

歯車

こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?

死の年に書かれ、没後に発表された遺稿の結び。神経をすり減らす幻覚の記録の果てに置かれた、近代文学でもっとも知られた絶筆の一行。

河童

これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。

晩年の風刺小説の書き出し。狂人の話であると先に断ることで、河童の国に託した人間社会への痛烈な批評が語り出される。

阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。

河童の国の哲学者マッグが書いた「阿呆の言葉」の一節。人間社会を裏返しに映す河童の世界を借りて、人の愚かさを皮肉る警句。

お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。

河童の国のお産の場面で、父親が母親の腹の中の子に大声で問いかける言葉。生まれるかどうかを子自身に選ばせる奇想が、人間社会への痛烈な風刺になっている。

文芸的な、余りに文芸的な

僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。

谷崎潤一郎との「小説の筋」をめぐる論争のなかで芥川が書いた評論の冒頭。筋の面白さより詩的精神を重んじる「話らしい話のない小説」は、晩年の芥川の文学観を示す言葉として知られる。

或旧友へ送る手記

少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

自殺の直前に友人へ託した手記の一節。なぜ死ぬのかという問いへの答えとして書かれ、一個人の理由を超えて大正末期の知識人の心情を言い当てた言葉として読み継がれている。

唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。

自殺の動機を「ぼんやりした不安」と記した手記の、終わり近くの一節。死を前にした目にこそ自然は美しく映るという「末期の目」は、のちに川端康成が同名の随筆で取り上げたことでも知られる。

続西方の人

我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。

遺稿となった『続西方の人』の結びの一文。エマオへの道で復活のキリストに出会った弟子たちに自らを重ねた、芥川の最晩年の言葉。

小説作法十則

小説はあらゆる文芸中、最も非芸術的なるものと心得べし。文芸中の文芸は詩あるのみ。

十か条の第一条。小説家でありながら小説を「最も非芸術的」と言い切り、詩を文芸の頂点に置く、芥川らしい逆説。

小説家たらんとするものは自動車学校を卒業せざる運転手の自動車を街頭に駆るがごとし。一生の平穏無事なるを期すべからず。

第四条の一節。小説家として生きることの危うさを、無免許で街に車を走らせることにたとえた、皮肉の効いた比喩。

僕は何ごとにも懐疑主義者なり。唯如何に懐疑主義者ならんと欲するも、詩の前には未だ嘗懐疑主義者たる能はざりしことを自白す。

末尾の附記。何事も疑う自分が、詩の前でだけは疑いきれないと打ち明ける。芥川の詩への思いがにじむ。

或阿呆の一生

「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

書店の梯子の上から人々を見下ろす場面の一句。遺稿となった自伝的断章の冒頭に置かれ、芥川の芸術至上の姿勢と底の見えない絶望を映す。

彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。

自伝的な断章集の最終章「敗北」の結び。力尽きかけた自らの晩年を、刃こぼれした細い剣を杖にする姿で描いた、痛切な自画像。

この作家について

芥川龍之介